常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

「哀」

白川静『常用字解』
「衣と口とを組み合わせた形。衣は襟もとを合わせた衣の形。口は ᄇ(さい)で、神への祈りの文である祝詞を入れる器の形である。人が死ぬと、死者の衣の襟もとにᄇをおいてお祈りをする。こうして死者をあわれみ、死者の魂をよびかえす儀礼を哀といい、‘あわれ、あわれむ、かなしい’の意味に用いる」

[考察] 
字の形 から意味を引き出すのが疑問である。「死者をあわれみ、死者の魂をよびかえす儀礼」が哀の意味だというが、これは字形(文字面)の解釈に過ぎない。 哀は古典ではただ「かなしむ」の意味で使われており、決して「死者をかなしむ」という意味ではない。例を挙げよう。
①原文 我心傷悲 莫知我哀
 訓読 我が心傷悲す 我が哀しみを知るもの莫し
 翻訳 私の胸は痛んだが、私の悲しみを誰が知ろう――『詩経』小雅・采薇
②原文   哀我人斯 亦孔之將
 訓読   我が人を哀れみ 亦(また)孔(はなは)だ之を將(おおい)にす
 翻訳 つわものどもをあわれんで、大いに力づけ励ました――『詩経』豳風 ・破斧

①はただ「(心がいたみ)かなしむ」の意味であって 、死者という意味素は含まれていない。②は「気の毒に思う、あわれむ」の意味で使われている。

白川漢字学説 では、字形の解釈をストレートに意味とするため余計な意味素が入り込むという特徴がある。意味は字形から来るのではなく、言葉の意味、すなわち古典漢語の意味である。それは古典における具体的文脈で実現されるものである。用例がなければ意味の取りようがない。
白川説でなぜ死者が出てくるかと言えば「口」を「祝詞を入れる器の形」とするからである。神主が唱える祝詞は分からないでもないが、祝詞を入れる器というのは何なのか。祝詞を文字に写し、それを書いた布(紙の発明ははるか後世)を器に入れるのであろうか。なにゆえ、何のために?よく分からないことである。
そもそも祝詞は口で唱える言葉であり、これをわざわざ文字で表記する必要があるだろうか。もし文字で表すとすれば、高度の抽象的な言葉を再現させる文字がすでに発明されていなければならない。死者をあられむことが「哀」だとすれば、哀もすでに発明されているはずである。
また死者の襟元にその器を置くというのもよく分からない。死者の襟元に祝詞を入れる器を置くという習俗(?)は確証のしようがない。想像の産物としか思えない。
「口」を「祝詞を入れる器」と解釈するのは白川漢字学説の根幹である。もしこれの確証がなければ白川漢字学説は崩れてしまう。民俗学で構築される古代文化学説も根拠を失うだろう。白川説が正しいと考えている後学の人たちは確証を示す必要がある。

哀はどのように解析すべきか。「衣(音・イメージ記号)+口(限定符号)」と解析する。衣は「ころも」という実体ではなく、イメージだけを用いている。実体にこだわると「かなしむ」と関連づけるため死者の衣という解釈が生まれるが、衣は死者とは何の関係もない。実体ではなく機能に着目するのが漢字を見る正しい眼である。では衣の機能とは何か。それは肌を隠すことにある。「衣は隠なり」というのが古人の言語意識である。
なぜ古人は「衣+心」で「かなしむ」を表そうとしたのか。「衣+心」はきわめて舌足らず(情報不足)な図形といわざるを得ない。
字源がはっきりしないときは語源を研究する必要がある。いや漢字の研究はまず語源から出発し、次に字源に移るのが正しい筋道である。「哀は愛なり」というのが古人の語源意識である。愛と哀はもちろん表層的な意味は違うが、深層において共通点があるという意識が「哀は愛なり」の表明である。愛の深層(コア)のイメージは「いっぱい詰まる」「中がふさがる」ということである(「愛」の項参照)。相手に対する思いで胸がいっぱい詰まる心理が愛である。胸にいっぱい詰まる感情は恋愛だけではない。苦悩・苦痛・悲痛の感情がいっぱい詰まることもある。心が痛んでその思いがいっぱい胸に詰まることを古典漢語で・ər(推定の上古音)というのである。
この聴覚記号を視覚記号に変換すべく生まれたのが「衣+口」の哀である。衣は隠すというイメージだけが取られる。隠すとは周囲を覆って中にふさいで見えないようにすることであるから、「中にふさぐ」「いっぱい詰まる」という愛と共通のイメージを表すことができる。ところが限定符号は心ではなく口が選ばれた。これはなぜか。愛の場合は限定符号として夊(ひきずる足)が選ばれた。思いが胸に詰まって足が進まない状況を設定したのが愛である。一方、心が苦痛でふさがりため息を出す状況を設定するために口を限定符号として哀が作られた。足と口の違いで、一方は愛、他方は哀という図形が成立する。

「亜」
正字(旧字体)は「亞」である。

白川静『常用字解」』
「中国古代の、王や貴族を埋葬した地下の墓室の平面形。死者を埋葬する葬礼など、霊に対する儀式をとり行う 執行者を亜といった。亜職の人は聖職に従事する神官であるので、族長に次ぐ第二番目の人とされた。それで亜は“つぐ、第二”の意味に使われるようになった」

[考察]
白川静『字統』(平凡社、1984年)では「亜字の原義は、おそらくこの玄室の意であり、それよりこの玄室における儀礼の執行者、すなわち喪葬の儀礼を執行する職能者を指したものと思われる」となっている。
上記の字源と意味の捉え方には二つの問題点がある。 一つは字の形から意味を導くこと。玄室→死者を埋葬する葬礼など、霊に対する儀式をとり行う 執行者と意味が転じたとしている。しかし「おそらく」「思われる」とあるように推測に過ぎない。形の解釈をもって意味とするのが白川漢字学説の特徴である。
二つ目は言葉がさっぱり見えないことである。「ア」という音は何かが分からない。
音は漢字の読み方(呼び方) というのが白川漢字学説のようである。これは言語学に合わない。仮名の「あ」はアという読み方であると同時にアという名称でもある。アという読み方は語構成で行われる。一方「あいうえお」などの五十音の一員としてはアは呼び方である。つまりこれは字の名称である。「亜」の場合はどうか。アは漢字「亜」の名称(呼び方)ではなく、・ăg(推定の上古音)という語の読み方なのである。音を漢字の名称とすると奇妙なことになる。漢・感・館・韓・官・間・鑑・干などはみなカンという名称になり、多すぎる同名では名称の体をなさない(区別できないから)。音は漢字の呼び方(名称)ではなく、語(古典漢語)の読み方、専門用語を使うと、記号素の音声部分である。

意味はどこにあるのか。白川漢字学説では意味は形にあるとしている。白川は漢字の研究を「字形学」と称している。これが形から意味を導く所以である。しかしこれは言語学に合わない。言葉という聴覚記号を表記するのが視覚的記号の文字である。これは図形の一種である。漢字の形とは聴覚記号を代替する視覚記号と定義される。図形に意味があるのではなく、言葉(音、すなわち記号素の読み方)に意味がある。言葉と一対一に対応する図形が文字である。図形(文字)が言葉から独立して存在するわけではない。
結論:漢字の形から意味を導く白川漢字学説は誤った学説と断定せざるを得ない。

では「亞」をどのように解すべきか。字源の究明は語源の後に行われるべきである。その前に「亞」の古典での使用例を見る必要がある。具体的な文脈における使用の仕方がすなわち意味である。意味は言葉の意味であり、言葉の使い方にほかならない。具体的な使用例がなければ意味の取りようがない。
古典では「亞」は「つぐ」という意味で使われている。『儀礼』に「魚、之に亞(つ)ぐ」という文章がある。供物などを配列する際、ある物の後に魚が置かれるという意味の文脈で使われている。Aの後にBが位置するというのが「亞」の意味である。ここから「二番目」という意味に展開する。これが亜流、亜熱帯の亜である。
「Aの後にBが位置する」「上のものの下位につく」という意味をもつ古典漢語が・ăgである。この聴覚記号が先にあって次に視覚記号が発明された。聴覚記号を視覚記号に変換する原理は何か。

言語から文字への変換のからくりを解明したのは言語学者ソシュールである。彼によると文字は二種類しかない。記号素の音声部分を図形に換える場合と、記号素の意味(イメージ・概念)を図形に換える場合の二通りあり、それぞれ表音文字と表意文字が生まれる。漢字は後者の方法で作られた文字である。しかし意味をそのまま形に表すのではなく、意味のイメージを図形に仕立てるのである。私は「意味のイメージの図形化」を漢字の原理と考える。すべての漢字の原理はこれ一つだけで十分である。
「漢字の形が意味を表す」というのは逆立ちした見方で、「意味のイメージを形に換える方法で生まれたのが漢字である」と見るのが正しい。表意文字だから形が意味をもつということではない。「日」は太陽を描いた形だから、「ひ」を意味するのではなく、太陽という意味のイメージを図形化したのが「日」である、このように理解しないといけない。形がそのままの意味を表さない例はいくらでもある。「大」は手足を広げて立つ人の形であるが、大きな人という意味ではない。「おおきさ」という抽象概念を図形化している。「形が意味を表す」という学説は全く誤りである。

「Aの後にBが位置する」「上のものの下位につく」という意味を視覚的な形にするにはどうしたらよいか。抽象的な意味は図形に表すのが難しい。だから具体的な情景や場面を作ることによって暗示させるしかない。意味をそのまま表すのは難しいので、意味のイメージを捉えて図形化するという方法が取られる。「後に位置する」「下位につく」という意味のコアイメージは何であろうか。上にAがあり、Bを押さえた姿になるので、Bは上に出られず、いつも下に押さえつけられている、こんなイメージが根底にある。簡単に言うと「上から下を押さえつける」というイメージである。ここから語源の話になる。こんなイメージをもつ語に圧力の圧(・ăp)、押捺の押(・ăp)、按摩の按(・an)、印象の印(・ien)、抑圧の抑(・iək)、そのほか遏・軋・凹などがあり、これらは類似の音をもち、「上から押さえつける」という共通のイメージをもつ。同じようなコアイメージであるが、文脈における用法が違い、それぞれ別語となる。「上から下に押さえつける」というコアイメージが特定の文脈で「Aの後に位置する」「トップの下位につく」という意味を実現させるのが・ăgという語である。これの表記に考案された図形が「亞」である。

語源の後に来るのが字源である。では「亞」はどのような図案で・ăgという語を表記したのか。従来の「亞」の字源説は、宮中の道、家、暖炉、隅角、地下穴居の室、玄室、墓穴、建物の土台などさまざまである。しかし実体にこだわると袋小路に入りかねない。実体を捉えてそれを意味とすると誤ってしまう。漢字を見る眼は実体ではなく機能に重点を置くべきである。つまり具体物そのものではなく、それのもつイメージに着目することである。
「亞」を建物の土台の形と見ると、その機能、役割、属性などが意味のイメージと素直に結びつく。基礎は建物を上に載せる働きをする。基礎は土を掘り下げることもあるし、土台にすることもあるが、建物を支える働きは変わらない。基礎の図形によって「上から下のものを押さえつける」というイメージを表現できる。かくて「亞」という図形が考案されたのである。
「亞」のコアイメージは「上から押さえつける」である。コアイメージが具体的な文脈で実現されるのが意味である。これが「Aの後にBが位置する」「上のものの下につく」という意味である。ここから「二番目の、下位の、次の」という意味に展開する。「上から押さえる、押す」という意味もある。これはコアイメージがそのまま文脈に実現されたものである。

語のコアイメージ(深層構造)が表層に現れて意味が実現されるというダイナミックな意味論――これが漢語意味論の特徴である。白川漢字学説では、「亞」は亜職の人は族長より下の位だから、「次ぐ、二番目」の意味になったというが、言語外から意味の展開を説くもので、とうてい科学的な意味論とは言えない。 

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