「見」

白川静『常用字解』
「象形。目を主とした人の形。人を横から見た形(儿)の上に大きな目をかき、人の目を強調して、“みる” という行為をいう」

[考察]
字形から意味を引き出すのが白川漢字学説の方法であるが、これは逆立ちした字源説。言葉という視点がない。言葉が先にあり、その言葉を図形(文字)に表すというのが歴史的過程である。
言葉という視座から、歴史的に字源を見てみよう。見は古典で次のように使われている。
①原文:我聞其聲 不見其身
 訓読:我其の声を聞けども 其の身を見ず
 翻訳:その人の声は聞こえるけど その人の姿は見えぬ――『詩経』小雅・何人斯
②原文:天下有道則見。
 訓読:天下道有らば則ち見(あら)はる。
 翻訳:天下に道が行われていれば、世間に姿を現す――『論語』泰伯

①はみる・みえる意味、②はあらわれる意味で使われている。この意味をもつ古典漢語がken(呉音・漢音でケン)である。これを代替する視覚記号として考案されたのが見である。
字源の前に語源を考える必要がある。語源のない字源説は半端なものになる。語源とは言葉の深層構造を捉えることでもある。言葉の深層(根底)にあるものがコアイメージである。kenという語のコアイメージは何か。古典の注釈では「見は顕なり」とある。「隠れていたものがはっきりと姿を現す」が顕の意味である。だからken(見)は「はっきり現れる」がコアイメージと言ってよい。このコアイメージが「物の姿が現れてはっきりと目に見える」という意味(①の意味)を実現させる。また「隠れていたものがはっきり姿を現す」という意味(②の意味)が実現される。①と②は共通のコアイメージから展開した二つの意味であるが、言葉として区別する場合、②はɦen(呉音ではゲン、漢音ではケン)という発音で区別する。
さて①②に対応する図形が見である。ここから字源の話になる。見は「目+儿」に分析できる。儿は二本の足をもつ人体である。目は物を見る器官であるが、その機能に重点を置く。したがって「目+儿」を合わせた図形で、物を見る情景という意匠を作り出している。この意匠によって、物の姿が視野にはっきりと現れて見えることを暗示させる。