「嫌」

白川静『常用字解』
「形声。音符は兼。兼は二本の禾(稲)を併せて手に持つ形。二本併せて持つことは、一本の禾のみを秉るのに比べて、何か不十分・不満足であるとする意味があるのであろう。不満足である、あきたらぬの意味を人間関係に移して嫌という。それで嫌は人を“きらう”の意味となる」

[考察]
疑問点①稲を二本持つことが、なぜ不十分・不満足の意味になるのか。むしろ一本持つほうが不十分ではないのか。②不満足の意味からなぜ「きらう」の意味が出てくるのか。必然性がない。
字形から意味を求める方法に問題がある。言葉という視座が抜け落ちているから、恣意的な解釈に陥る恐れがある。意味は言葉に内在する観念である。言葉の使い方から意味は知ることができる。字形から出てくるわけではない。では字形とは何か。言葉を表記するための手段である。どのように言葉を表記するために図形が工夫されたのか。これを説明するのが字源である。だから字形→意味の方向に見ると誤ってしまう。意味→字形の方向に見る視点が必要である。
嫌はどのような文脈で使われているかを古典に尋ねてみよう。
①原文:其累百年之欲、易一時之嫌。
 訓読:其れ百年の欲を累ぬるも、一時の嫌に易(か)ふ。
 翻訳:長い間欲望をためても、一時で嫌悪に変えてしまう――『荀子』正名
②原文:處利害、決嫌疑。
 訓読:利害を処し、嫌疑を決す。
 翻訳:利害をうまく処理し、疑わしいことを解決する――『墨子』小取

①は忌みきらう(いやだとして避ける)の意味、②はよくないと疑わしく思う意味に使われている。この意味をもつ古典漢語がɦem(呉音ではゲム、漢音ではケム)である。これを代替する視覚記号として嫌が作られた。
嫌は「兼(音・イメージ記号)+女(限定符号)」と解析する。兼がコアイメージと関わる部分である。ɦemという語のコアイメージとはどういうものか。Aという事態をBが受け入れず忌避する感情が日本語の「きらう」や「忌む」である。AとBの間には摩擦の状態、ぎざぎざした尖った状態、角立つ状態がある。これを排除し遠ざけようとする心がɦemという心理語である。このようにɦemには「角立つ」というコアイメージがある。これを表すための記号が兼である。兼はこのイメージを表すことができるのか。
兼は二つのものを合わせることを示すために考案された図形である(466「兼」を見よ)。稲束を‖の形に並べた形である。これは平行の状態だが、合わせ方は∧の形や∨の形もある。∧は尖った形、ぎざぎざのイメージ、∨はへこみ・くぼみのイメージである。∧は「かど」や「角立つ」のイメージを表すことができる。廉(かど)や鎌(かま)に生きている。∨の「へこむ」のイメージは謙虚の謙に生きている。
兼は「かど」「角立つ」のイメージを表すことができるので、「兼(音・イメージ記号)+女(限定符号)」を合わせた嫌は、ある事態に対して感情が角立って、それを退けようとする状況を暗示させる。女を限定符号に用いたのは嫉・妬・妄など女にありがちな感情ということで、女に関わる状況を設定したもの。