「言」

白川静『常用字解』
「会意。古い字形は辛と口とを組み合わせた形。辛は刑罰として入れ墨するときに使う把手のついた大きな針の形。口はᆸで、祝詞を入れる器の形。ᆸの上に辛を置き、もし誓約を守らないときにはこの針で入れ墨の刑罰を受けますというように、神に誓いをたてて祈ることばを言という。それで言は“神に誓うことばをいう、いう、ことば” の意味となる」

[考察]
祈る言葉は聴覚的な言語である。祝詞とはこのような言葉を唱えて祈ることである。この祝詞を器に入れるとはどういうことであろうか。器に入れるには言葉を文字に写して竹簡・木簡や布などに書く必要がある。神に誓いを立てるときの言葉は簡単な文句ではあるまい。長文になる可能性もある。これを竹簡・木簡や布に書くと膨大な量になる(古代では竹簡や木簡に書く字数は決まっていた)。これを器に入れてどうしようというのか(どんな器か。陶製か木製か)。わざわざ器に入れるまでもなく、口で唱えればよいことではないか。白川学説の根幹をなす祝詞説は論理的に考えると辻褄が合わない。
また「辛(針)+ᆸ(器)」という極めて舌足らずな図形から、もし誓約を守らないと入れ墨の刑罰を下すという解釈が生まれうるだろうか。この図形から誓約の言葉という意味を読むのは深読みというほかはない。
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法であるが、言葉という視点が欠落しているため、字形を恣意的に解釈する傾向がある。その結果図形的解釈と意味が混同される。「神に誓いを立てる言葉」というのは図形的解釈であろう。意味は単に「ことば」「ことばをしゃべる(いう)」であろう。
言葉という視点から言を見てみよう。次の用例がある。
①原文:父母之言 亦可畏也
 訓読:父母の言 亦(また)畏るべきなり
 翻訳:両親の言葉も ほんとうにこわいから――『詩経』鄭風・将仲子
②原文:彼狡童兮 不與我言兮
 訓読:彼(か)の狡童 我と言(ものい)はず
 翻訳:あの意地悪な少年は 私とおしゃべりしてくれない――『詩経』鄭風・狡童

①は言葉、②は言葉をしゃべる(いう)の意味である。この意味をもつ古典漢語がngiăn(呉音ではゴン、漢音ではゲン)である。この聴覚記号を代替する視覚記号が言である。
言の字源については諸説紛々だが「辛+口」に分析するのは妥当である。辛はある種の刃物の図形である。実体に囚われると迷宮に入ってしまう。漢字の造形法はイメージを図形化するのが原理である。実体に重点があるのではなく、形態や機能に重点がある。刃物の機能は「切る」ということである。辛は「―|―の形に切る」というイメージを表すことができる。
言葉とはどいうものであろうか。言葉に対する反省がないと図形に表すことはできない。古代人の考えに沿って考えてみよう。言葉は音声を利用したものである。音声を利用して何かを指し示す働きがある。音声に意味を持たせると目的のものを指し示すことができる。音はウーウーとうなるだけで何の意味もないが、音に区切りをつけて特別の発音を作ると特定の意味をもつ音のつながりができる。このようにして無意味な音が意味をもつ音に変わる。無意味な音はけじめのない連続した音声だが、意味のある音は区切られて互いに違いのある音声である。これを図示すると、――(のっぺらぼうな音声)が―|―の形に区切られたものとなる。区切られた一つ一つが違った意味をもつ言葉となる。このように言葉とは無意味な音声に切れ目をつけて意味を持たせたものと言える。かくて図形化の道が開かれる。「―|―の形に切れ目をつける」というイメージをもつ辛を利用し、言葉を発する器官である口を添えた図形、すなわち「辛(イメージ記号)+口(限定符号)」を合わせた言が生まれた。これによって①②の意味をもつngiănを表記するのである。