「向」

白川静『常用字解』
「会意。A(窓の形)と口とを組み合わせた形。口はᆸで、祝詞を入れる器の形。中国北部の黄土地帯では半地下式の住居が多く、部屋の窓は一つであり、そこから入る窓明かりを神の訪れとみたたて、窓のところにᆸを供えて神を祀ったのである。向はもと神を迎え、神を祀る窓であった。のち嚮と通じて“むかう”の意味に用いる」
A=[向-口](向から口を省いた部分)

[考察]
字形の解釈に疑問がある。Aの形は奥にも含まれているが、白川は97「奥」の項では宀としている。だから向は「宀+口」の組み合わせである。Aを窓の形としたいために宀にしなかったのであろう。むしろ口こそ窓の形とすべきである。「宀(建物、家)+口(穴)」を合わせて、建物の通気孔を暗示させる図形である。
白川漢字学説では口をᆸ(祝詞の器)とするので、宀を窓とし、窓のところに器を置いて神を迎えると解釈した。誤った字形の解釈から「神を迎え神を祀る窓」という意味を導くが、こんな窓がありうるだろうか。図形的解釈と意味が混同されている。意味は文脈で用いられて初めて実現するものである。
また「むかう」の意味を仮借とする。言葉という視点がなく、言葉の深層構造を探らないから、意味の展開を合理的に説明できない。
向は古典では「まど」の意味で使われている。
①原文:穹窒熏鼠 塞向墐戸
 訓読:穹窒して鼠を熏じ 向(まど)を塞ぎ戸を墐(ぬ)る
 翻訳:穴を塞いで鼠をいぶし 窓をとざして戸を固める――『詩経』豳風・七月

①は毛伝(『詩経』の古い注釈)に「北に出づる牖(まど)なり」とある。北向きの窓を向という。これを古典漢語ではhiang(呉音ではカウ、漢音ではキヤウ)といい、向で表記する。
古代では空気という概念はないが、ガス状の物質を意味する気という概念はあった。宇宙には気が満ちていて、人体や環境(住まいなど)にも見えない気が出入りするという考えがあった。だから建物の窓の機能が明かりを採ること以外に、気を出入りさせることであったとしても不思議ではない。上記の詩句は冬支度を詠んだもので、やがて来るであろう寒気を防ぐために北向きの窓を閉鎖し戸口を泥で固めることを述べている。
北向きの窓は北に向いているものであり、また、気は一定の向きに通っていくものである。だからhiangという言葉のコアには「一定の方向に向かう」というイメージがある。このイメージから「むかう」「むき」などの意味が実現される。次の用例がある。
②原文:高陵勿向。
 訓読:高陵には向かふこと勿れ。
 翻訳:高い丘の軍には向かってはならない――『孫子』軍争