「香」

白川静『常用字解』
「会意。もとの字は黍と曰とを組み合わせた形。黍はきび。曰はᆸ(祝詞を入れる器の形)の中に祝詞が入っている形。黍をすすめ、祝詞を奏して神に祈るの意味の字であろう」

[考察]
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。黍(きび)+曰(祝詞を入れる器)→黍をすすめ、祝詞を奏して神に祈るという意味を導く。
字形から意味を導く方法は図形的解釈をストレートに意味とするため、余計な意味素(意味を構成する要素)が混入する場合、意味を取り違える場合、存在しない意味を作り出す場合などを引き起こしがちである。「黍をすすめ、祝詞を奏して神に祈る」という意味は香に存在しない。
意味とは「言葉の意味」であって字形にあるのではない。具体的文脈で使われていないと意味とは言えない。香は次のような文脈で使われている。
 原文:其香始升 上帝居歆
 訓読:其の香始めて升(のぼ)り 上帝居ながら歆(う)く
 翻訳:供物のかおりが立ち上り 天の神は安んじて受ける――『詩経』大雅・生民

香はかおりの意味である。周の始祖神である后稷が栽培植物を発見し農耕を開始するという神話を描いたくだりに上の文が出る。栽培植物の一つにキビもある。
「かおり・かおる」を意味する古典漢語はhiang(呉音ではカウ、漢音ではキヤウ)で、これを視覚記号化したのが香である。香は「黍+甘」と分析できる(篆文の字体)。黍は「禾(穀物)+水」を合わせて、水分を含んで粘り気のある穀物を暗示させる。これでキビを表す。甘は口に物を含む形である。「黍+甘」を合わせた香は、キビを口に含んでうまく味わう情景を設定した図形。この図形的意匠によっ、良いかおりを意味するhiangを表記する。うまく味わうことは味覚に関わることであるが、これを嗅覚の言葉に換えるのは、共感覚メタファーによる表現法(比喩法)である。