「谷」

白川静『常用字解』
「象形。谷の入り口の所の形。上部の八の形が重なっているのは、山脈が重なるように迫っている形。下部は口ではなく、𠙴のような形で、谷の入り口の形であるから、全体の形が“たに” を示す。甲骨文字は谷の入り口の所にᆸ(祝詞を入れる器の形)を置いている形であって、そこは聖所として祀られたのであろう」


[考察]
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。八+八(山脈の重なり)と𠙴(入り口)を合わせた全体が谷の形で、「たに」の意味になるという。しかし谷に入り口があるのか。また甲骨文字では谷の入り口に祝詞の器を置いた形だというが、こんな情景は想像しにくい。
言葉という視点がないのが白川漢字学説の特徴である。まず言葉があり、その後に文字ができたのは明白な事実である。「たに」の形が先にあって「たに」の意味が生まれたわけではない。
言葉という視座から見てみよう。言葉としての用法は次の例がある。
①原文:惴惴小心 如臨于谷
 訓読:惴惴たる小心 谷に臨むが如し
 翻訳:びくびくと恐れる心は 谷間のふちに臨むようだ――『詩経』小雅・小宛
②原文:人亦有言 進退維谷
 訓読:人亦(また)言有り 進退維(こ)れ谷(きわま)る
 翻訳:昔の人の言葉あり 「進退ともに窮まる」と――『詩経』大雅・桑柔

①は谷間の意味、②は窮まって動きが取れない意味で使われている。これを意味する古典漢語がkuk(呉音・漢音でコク)であり、これを代替する視覚記号が谷である。
kukの語尾が変わるとkug、kungとなるが、これらは同源の単語家族を構成し、「穴、突き抜ける」という基本義があると指摘したのは藤堂明保である。自然界では谷・空・孔、人体では口・喉・胸・腔・肛などが「あな」というコアイメージをもつ。
「谷間」も穴のイメージがある。山間の大きなくぼみの地形である。これを図形化したのが谷である。上部の「八+八」は八(左右に分かれる符号)を二つ重ねた形で、別と同じ。口は穴・くぼみの形である。したがって谷は二つの山が両側に分かれて、その中間にある穴・くぼみを暗示させる。この図形的意匠(図案、デザイン)によって「たにま」を意味するkukを表記したのである。
なぜ②の意味もあるのか。「穴・くぼみ」というコアイメージがあるから、くぼみにはまって動きが取れなくなるというイメージに転じたのである。進むも退くもできなくなることを「進退谷る」という。