「才」

白川静『常用字解』
「象形。表示として樹てた標木の形。標木の上部に横木をつけ、そこにᆸ(祝詞を入れる器の形)をつける。これによってその場所が聖化されるので、才は神聖な場所として“ある”ことをいう。才は在(ある)のもとの字である」

[考察]
字形の見方に問題がある。才にはどう見てもᆸの形は含まれていない。標木に祝詞の器をつけるとはどういうことか。理解しがたい。祝詞から神・神聖を連想するが、才が「聖化され神聖な場所としてある」の意味とはとうてい考えられない。そんな意味には使われていないからである。甲骨文字では才は在の意味で使われているようだが、ただ「(ある場所に)ある」という意味に過ぎない。
才は古典では次のように使われている。
 原文:既竭吾才。
 訓読:既に吾が才を竭(つく)す。
 翻訳:今まですでに自分の才能を尽くしてきた――『論語』子罕

才は物事を処理する優れた能力(技・腕前)の意味で使われている。これを古典漢語ではdzəg(呉音ではザイ、漢音ではサイ)という。これを代替する視覚記号が才である。
白川説では才がなぜ才能の意味をもつのかの説明ができない。才・在・材・財・災・裁など一連の才のグループに共通するコアイメージを捉えるのが意味展開を説明する鍵である。
才という図形は災に含まれる 巛と由来が同じである。[巛+一](巛の真ん中に一を引いた形。葘の中に含まれている)がもとの字でサイと読む。巛は川(水の流れの形)と同じで、[巛+一]は水の流れを一の印で遮り止める情景を表現している。これは川をせき止めるもの、堰せき(ダム)でもある。この堰を象形的に表現したのが才の図形である。
漢字の造形法は実体に重点があるのではなく形態・機能に重点がある。才は堰を意味するのではなく、その機能である流れをせき止めることにイメージを取るのである。だから才は「途中で断ち切る」というイメージを示す記号になりうる。これを図示すると―↓―の形、あるいは→|の形である。これは「切る」のイメージでもあり、「止める」のイメージでもある。
かくて在(ある)と才(才能)とのつながりが見えてくる。動くものが動きを止めてある場所にじっと止まっていること、これが在(ある)である。物事の善し悪しや適否をずばっと断ち切って処理する(裁断する、取りさばく)能力、これを才という。役立てるために断ち切っ木(材木の材)も才能の意味に展開する。決裁の裁(物事をきっぱり裁断してうまく取りさばく)や裁判の裁(善悪をはっきり分けて裁断する、さばく)も才が含まれており、才・材・裁は「断ち切る」というコアイメージが共通である。