「最」

白川静『常用字解』
「会意。冃ボウと取とを組み合わせた形。取は耳と又(手の形)とを組み合わせた形で、戦場で討ちとった者の左の耳を、証拠として手で切り取るの意味である。冃は頭巾の類で、覆うの意味がある。切り取った耳が多いとき、上から覆って取り集めることを最といい、指先でつまむようにして取ることを撮という。切り取った敵の左耳の数で軍功を定め、功績第一を最という」 

[考察]
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。冃(覆う)+取(敵の左耳を切り取る)→切り取った多くの耳を覆って取り集めるという意味を導く。この意味から、敵の左耳を切り取った功績第一という意味に展開させる。
「冃(覆う)+取(取る」という舌足らず(情報不足)な図形から、敵、左耳、切り取る、取り集める、耳の数、軍功というぐあいに連想していく。数量の多い状態が最ということになる。しかし最は最小、最低など、数量や程度が小さい(少ない)状態にも使われる。最は数量の大小とは無関係である。
白川漢字学説には言葉という視座がない。字形からのみ意味を考える学説である。言葉という視点を導入しないと意味にゆがみを生じる。意味は言葉にあって字形にはないからである。言葉(記号素)は音と意味の結合体で、意味は言葉に内在する観念というのが言語学の定義である。
言葉の視点から最を見よう。最は古典に次の用例がある。
 原文:人有氣有生有知、亦且有義、故最爲天下貴也。
 訓読:人は気有り、生有り、知有り、亦且つ義有り、故に最も天下の貴と為すなり。
 翻訳:人には気も生も知も義もあるから、世界でもっとも貴いとされるのだ――『荀子』王制
最はこの上もなく(ごく、もっとも)の意味で使われている。これを古典漢語でtsuad(呉音・漢音ではサイ)という。これを代替する視覚記号として最が考案された。
古典に「最は聚(あつめる)なり」とあり、最には「集める」というイメージがある。ただし多くの物を集めるのではなく、親指・人差し指・中指の三本の指を集めて物をつまみ取る行為から発想された語がtsuadである。字源から検討してみよう。
最は「冃+取」に分析できる。冃は上からかぶさることを示す象徴的符号である(「冒」で詳述)。上から物がかぶさると、それをはねのけよう、押しのけようと反発する力が働く。冃(覆いかぶさる)から冒(上から押さえようとするものをはねのけて突き進む→おかす)という意味に展開する。この行為は↓の形にかぶさったり押さえたりするものを、↑の形にはねのけたり押しのけたりするというイメージである。「冃(上からかぶさる)+取(取る)」を合わせた最は、かぶさったものを押しのけて無理に取る情景を暗示させる図形である。『説文解字』に「最は犯して之を取るなり」とある。具体的にはどんな取り方か。取りにくいものをむりやり取る行為である。五本の指を全部使うのではなく、一部の指を使ってつまみ取る行為である。後に撮と書かれる取り方である。つまむような摑み方は大量に取れない。ごく少量である。だから撮は少量を数える単位にもなる。最は「ごく少量」を抽象化して「ごく」「この上なく」という意味に使う用法に転じた言葉である。数量の多少・大小に関わりなく使える。