「施」

白川静『常用字解』
「形声。音符は也。㫃は旗が風にはためいている形。旗をなびかせて軍に指揮し、軍を動かすことを施という。施うつるというよみ方があり、施るようにとの命令を与えることを“ほどこす”というのであろう」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなく、会意的に説く特徴がある。本項では会意的にも説明できていない。也の説明がつかないから、限定符号の㫃から意味を導こうとしている。その結果、「旗をなびかせて軍に指揮し、軍を動かす」という、あり得ない意味を導いた。
施は古典でどのように使われているかを見てみよう。次の用例がある。
①原文:己所不欲、勿施於人。
 訓読:己の欲せざる所、人に施すこと勿れ。
 翻訳:自分のほしくないものを他人に与えるな――『論語』顔淵
②原文:肅肅兔罝 施于中林
 訓読:粛粛たる兎罝トシャ 中林に施す
 翻訳:目の細かい兎網 森の中に仕掛ける――『詩経』周南・兎罝

①は物をAからBに移して与える、また、恵み与える意味、②は物を移してその場に設置する意味で使われている。これを古典漢語ではthiar(呉音でセ、漢音でシ)という。これを代替する視覚記号として施が考案された。
物をA点(自分側)からB点(相手側)に移動させて与えることをthiarという。この語のコア(根底、核)には「A→Bの形に延びて移る」というイメージがある。AからBに物が移動していくことを捉えてthiarというのである。
thiarを表記する施は「也(音・イメージ記号)+㫃(限定符号)」と解析する。也はヘビを描いた図形である。蛇の異体字に虵がある。ヘビの形に它と也があり、後者は地・他・池・馳・弛・施などのグループを構成する。ヘビという実体を用いた字は蛇と虵で、ほかは形態や機能を捉えたイメージが用いられる。ヘビは腹這いして移動するので、「ずるずると横に延びていく」「うねうねと曲がりくねる」というイメージを也で表すことができる。㫃は旗と関係があることを示す限定符号である。限定符号は範疇や意味領域を限定するほかに、図形的意匠を作るための場面設定の働きがある。かくて施は旗が風でひるがえり、吹き流しが横にずるずると延びる情景を設定している。これが図形的意匠であるが、意味そのものではない。意味は①と②である。
ちなみに「ずるずると延びて移る」というコアイメージがそのまま具体的な文脈で使われることがある。
 原文:葛之覃兮 施于中谷
 訓読:葛の覃(の)びて 中谷に施(うつ)る
 翻訳:クズの蔓が延びて 谷間の中に這っていく――『詩経』周南・葛覃
この施はyiar(呉音・漢音でイ)と読み、上のthiarとは区別される。このyiarの「移る」という意味が最初の意味であったとしても不思議ではない。