「事」

白川静『常用字解』
「会意。史と吹き流しとを組み合わせた形。ᆸ(祝詞を入れる器)をつけた木を右手に高く捧げ、祖先の霊を祭ることを史といい、大きな木の枝にᆸをつけて地方に出て山川を祭ることを使という。その大きな木の枝にさらに吹き流しをつけて山や河で国家的な祭祀をすることを事といい、“まつり” の意味となる」

[考察]
白川学説によれば史・使・事は同形だという(697「使」の項)。同形なのになぜ違う意味になるのか。まとめると
 史=「ᆸをつけた木を右手に持ち、高く捧げて神に祈り祭るの意味」(184「史」の項)
 使=「大きな木の枝にᆸをつけて地方に出て山川を祭ること」(本項) 「祭りの使者、つかい、使いするの意味」(697「使」の項)
 事=「大きな木の枝にさらに吹き流しをつけて山や河で国家的な祭祀をすること」
となる。事は史を含むからᆸ(祝詞を入れる器)と吹き流しをつけるのであろう。史と事は同形なのに事だけになぜ吹き流しが出るのか。同形と言いながら差別化を図ったのか。しかし吹き流しを加えることがなぜ国家的な祭祀になるのか。理由が分からない。
祭祀で神に祝詞を唱えるだろうから祝詞の意義は分からないでもないが、吹き流しは分からない。そもそも祝詞は口で唱える言葉であって、これを器に入れる理由は何だろうか。
さまざまな疑問が湧く。
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。史も使も事も「まつり」の意味を引き出しているが、こんな意味があるだろうか。意味とは「言葉の意味」であって字形にあるわけではない。意味は言葉が使われる文脈に現れるものである。古典で事はどのように使われているかを見てみよう。
①原文:念我獨兮 我事孔庶
 訓読:我の独りなるを念ふ 我が事孔(はなは)だ庶(おほ)し
 翻訳:独りぼっちの我が身を思う 仕事ばかりが人より多い――『詩経』小雅・小明
②原文:匪手攜之 言示之事
 訓読:手もて之を携ふるに匪(あら)ざれば 言(ここ)に之に事を示さん
 翻訳:手を携えてやるだけでなく 事実を示して教えよう――『詩経』大雅・抑
③原文:事父母能竭其力。
 訓読:父母に事(つか)へて能く其の力を竭(つく)す。
 翻訳:父母に仕えて一生懸命努める――『論語』学而

①は役に立てる仕事や職務の意味、②は事柄や出来事の意味、③は仕える意味で使われている。これを古典漢語ではdzïəg(呉音でジ、漢音でシ)という。これを代替する視覚記号として事が考案された。
『釈名』(古代の語源辞典)では「事は倳なり。倳は立なり。凡そ立つる所の功なり」と語源を説いている。事は「立つ、立てる」というイメージをもつ語で、士・仕・史・使と同源である。だから事はまっすぐ立ち上げるもの、手柄を立てるものというイメージがあり、これが具体的文脈では①の意味を実現する。また「立つ」というコアイメージから、貴人や目上の側に立って仕えるという意味(③)を派生する。仕も「立つ」というイメージから「つかえる」の意味が実現される。
次に事の字源について。図形は史・吏と似ており、計算用具または筆記用具を手に立てて持つ情景を設定した図形である。計算用具や筆記用具を立てることを役人のシンボルとしたもので、「まっすぐ立てる」というイメージを表すことができる。この意匠によって、功績を立てるために従事すること、仕事・職務を暗示させる。