「時」

白川静『常用字解』
「形声。音符は寺。寺はものを保有し、またその状態を持続するの意味があり、持のもとの字である。手に持ち続けることを持といい、時間的に持続することを時という」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなく会意的に説く特徴がある。寺(ものを保有し、その状態を持続する)+日→時間的に持続するという意味を導く。
寺に「物を保有し、またその状態を持続する」という意味はない。寺は貴人の側に侍ってまめに働く人の意味で使われている(727「寺」を見よ)。意味とは文脈における言葉の意味であって、ほかにあるわけではない。
寺の意味を「物を保有し、その状態を持続する」としたのは字形の解釈に過ぎない。つまり意味とは異なる。これから引き出された「時間的に持続する」という意味も同様である。
古典漢語における「とき」の観念はどう捉えられたのか。dhiəg(時)という語の深層構造を探ることによって明らかになる。
時の古文(周代における字体の一種)は旹となっている。この異体字に注目する。日の上部は之と同じで、「之シ(音・イメージ記号)+日」と分析する。之は「まっすぐ進む」というイメージがある(693「芝」、695「志」を見よ)。この之を寺に替えたのが時である。実は寺にも「まっすぐ進む」というイメージがある。寺自体が之を含む。かくてなぜときを意味するdhiəgを表記するために時が考案されたかが明らかになる。
時は「寺(音・イメージ記号)+日(限定符号)」と解析する。寺は「まっすぐ進む」というコアイメージがある(727「寺」を見よ)。したがって時は日が進行する状況を暗示させる。時間を進行のイメージで捉えたのが時であると言える。
ちなみに日本語の「とき」はとく(解く)、つまり「固まっているものがゆるみ、くずれて流動していく意」に由来するという(『古典基礎語辞典』)。「とき」は流動のイメージから来ていると見てよいだろう。また英語のtimeはtide(潮流)と同根だという説がある(『英語語義語源辞典』)。古典漢語の時もこれらと似た発想である。言語の普遍性が感じられる。