「者」
正字(旧字体)は「者」である。

白川静『常用字解』
「会意。交叉させた木の枝と曰とを組み合わせた形。曰は祝詞を入れる器(ㅂ)の中に祝詞がある形。曰の上に木の枝を重ね、土(木の枝の間の点が土を表す)をかけて、お土居(土の垣、土塁)を作る形が者で、お土居、土塁の意味となり、堵(土の垣)のもとの字である。“お土居、かくす”が者のもとの意味であるが、のちには“もろもろ、もの(人)”の意味に用いる」

[考察]
字形から意味を引き出すのが白川漢字学説の方法である。交叉させた木の枝+曰(祝詞)→お土居・土塁という意味を導く。
字形の解剖にも意味の取り方にも疑問がある。祝詞は祈りをする口唱の言葉で、聴覚言語であるのに、なぜ器に入れるのか。この器の上に木の枝を重ねるとはどういうことか。これからなぜ「お土居」という意味が出てくるのか。また、「お土居」の意味から、なぜ「もろもろ」や「もの」の意味に転じるのか。すべて疑問である。
字形から意味を求めると、図形的解釈と意味が混同され、あり得ない意味が生まれる。意味とは「言葉の意味」であって、字形に求めるべきではなく、言葉が使われる文脈に求めるべきである。
者は古典で次のように使われている。
①原文:彼蒼者天
 訓読:彼(か)の蒼き天よ
 翻訳:あの青い大空よ――『詩経』秦風・黄鳥
②原文:不知我者 謂我士也驕
 訓読:我を知らざる者は 我に士や驕ると謂ふ
 翻訳:私を知らない人は 男は勝手なものよと言う――『詩経』魏風・園有桃
③原文:不念昔者 伊余來墍
 訓読:念はずや昔者(むかし) 伊(こ)れ余に来り墍(いこ)ひしを
 翻訳:お忘れか昔あのころは 私のもとで休らったことを――『詩経』邶風・谷風

①は前の形容詞と後の名詞をつなぐことば。②は前の事柄につけて「~もの」と受ける用法。③は時間を表す副詞につける接尾語である。これらの用法をもつ古典漢語をtiăg(呉音・漢音でシャ)という。これを代替する視覚記号として者が考案された。
上記の用法は文法的な働きであって、実質的な意味をもっているわけではない。Aという言葉とBという言葉をつなげて一つの文(句)にする文法的機能である。言葉と言葉を裸のままくっつけるのではなく、「AのB」「AであるところのB」と表現するのが古典漢語の文法である(もちろん二語をくっつけて別の語を作る手法もある。これは熟語である)。AとBをつなぐ言葉がtiăg(者)である。之(tiəg)もこれと同じ用法である。的(tek→de)はこれらの子孫に当たる。
では者という視覚記号はどのようにして工夫されたのか。ここから字源の話になる。字源については諸説紛々だが、煮の原字とする藤堂明保の説が妥当である。者は器(こんろの類)の上で薪を集めて燃やす情景を設定した図形と解釈できる。木の間に点々があるのは火が燃えている様子を表している。曰は容器の形である。この図形的意匠によって、「多くのものを一つの所に集める」というイメージを表すことができる。多くのものが集まれば、間隔が詰まり、密着した状態になるので、「くっつける「くっつく」というイメージにも展開する。者のグループ(者・煮・暑・署・書・緒・諸・著・着・都・賭・箸・渚・猪・儲など)にはこのコアイメージが共通にある。
「くっつける」というコアイメージをもつ語群から文法的な働きを表すtiăg(者)が生まれた。Aという言葉とBという言葉をくっつけてつなぐ働きをする文法的なことばである。実質的な意味をもつものを実辞(実字)というが、文法的な働きをするものを虚辞(虚字)という。
なお②の「~もの」という用法は人とは限らない。「~するところのもの」で、人・事・時などを包括する。熟語を見ると分かる。医者や学者は人だが、前者・後者は事である。