「射」

白川静『常用字解』
「会意。古い字形は弓と矢と又(手の形)とを組み合わせた形。弓に矢をつがえて射る形で、“いる”の意味となる」

[考察]
字源だけを見るなら、上の説は妥当である。しかし字形から意味が出るのではなく、意味を図形に表したのである。正確に言うと、「いる」の意味はdiăgという言葉にあり、このdiăgを射と表記したのである。この語がなぜ「いる」の意味なのかは次のような用例があるから分かる。
 原文:舞則選兮 射則貫兮
 訓読:舞へば則ち選(そろ)ひ 射れば則ち貫く
 翻訳:舞を舞えばリズムにかない 矢を射れば的を貫く――『詩経』斉風・猗嗟

なぜ「いる」ことを古典漢語でdiăg(呉音でジャ、漢音でシャ)というのか。矢を放つ直前はぴんと張り詰めた状態である。弓の弦は緊張の頂点にある。この緊張を一瞬に解き放つのが矢を射る行為である。『礼記』に「射の言為(た)るは舍なり」(射は舍と同源である)と語源を説いている。舍は緊張を解いて休むというイメージがある。舍には「休む」のほかに放つの意味もある。ぴんと張った弦を一瞬に緩めて放つことが射なのである。舍だけではなく卸シャ(馬から鞍や荷を解いて下ろす)、捨(握っている手を緩めて物をすてる)、赦(罪を許して放つ)、また感謝の謝も「(緊張した状態を)緩める」というコアイメージがある。これらは同源の言葉と言ってさしつかえない。
最後に射の字源について。「身+寸」は篆文の段階で変化した字体である。甲骨文字・金文では身が弓に矢をつがえた形になっている。白川のいうような「弓+矢」を合わせた会意文字ではなく、象形文字である。これに動作に関わる限定符号(金文では又、篆文では寸)を添えて、射の字体ができた。この図形的意匠によって「矢を射る」ことを暗示させる。