「蛇」

白川静『常用字解』
「形声。音符は它。它は頭の大きなへびの形で、蛇のもとの字である。它に他(ほか)の意味があるから、のち虫を加えた蛇が形声の字として作られ、“へび” の意味に用いられる」

[考察]
字源説としては妥当である。ただ它の「他(ほか)」の意味と「へび」との意味との関係が分からない。
它はへびの象形文字である。『説文解字』では它と蛇を同字として扱っている。しかし古典では它を「へび」の意味では使っていない。「へび」の意味には蛇を使っている。次の用例がある。
①原文:它山之石 可以攻玉
 訓読:它山の石 以て玉を攻(おさ)むべし
 翻訳:ほかの山のつまらぬ石でも 玉を磨くには役立とう――『詩経』小雅・鶴鳴
②原文:維虺維蛇 女子之祥
 訓読:維(こ)れ虺キ維れ蛇 女子の祥
 翻訳:[めでたい夢は]まむしだ へびだ 女子の生まれるしるしだ――『詩経』小雅・斯干

①は「ほか」の意味、②はへびの意味である。古典漢語で①はt'ar(呉音・漢音でタ)、②はt'arまたはdiăr(呉音でジャ、漢音でシャ)という。視覚記号として①は它、②は蛇が用いられる。
なぜ它に「ほか」という意味が生まれたのか。あるいはなぜ「ほか」をt'arといい、它で表記したのかと言い換えてもよい。「ほか」とはそれとは違った物や事である。普通とは違う、普通とは変わっている、普通ではないというニュアンスがある。古代の挨拶用語に「它無きや」(普通とは変わったことはないか)という言い方があったらしい。この表記の它はへびに由来するという説がある。つまりへびによる害に遭うことを、普通とは変わった出来事に遭遇すると考え、「它無きや」を挨拶用語にしたという。以上は『説文解字』に出ている。「它無きや」が後世の「恙無きや」に当たる言葉と見れば納得できよう。