「儒」

白川静『常用字解』
「形声。音符は需。需は雨と而(頭髪を切って髻のない人の形)とを組み合わせた形で、巫祝をいう。ひでりのとき、巫祝が雨乞いすることを需といい、雨を需もとめ、需つの意味となる。その雨乞いをする巫祝を儒という」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなく会意的に説く特徴がある。需(巫祝が雨乞いをする)+人→雨乞いをする巫祝という意味を導く。
而に巫祝(神主、みこ)という意味はない。また需に「雨乞いをする」という意味もない。だから儒に「雨乞いをする巫祝」という意味もあり得ない。すべて字形の解釈から生み出された意味である。
字形に意味があるとするのが白川漢字学説の根本であるが、これは言語学を逸脱している。言語学では、言葉(記号素)は音と意味の結合体であり、意味は言葉に内在する概念と定義される。意味とは「言葉の意味」であって字形に属するものではない。意味は字形ではなく言葉が使われる文脈に求めるべきである。
儒は古典に次の用例がある。
 原文:女爲君子儒、無爲小人儒。
 訓読:女(なんじ)は君子儒と為れ、小人儒と為る無かれ。
 翻訳:お前は立派な教養人となれ。詰まらぬ学者となるな――『論語』雍也

儒は学問を修め、教養のある人の意味で使われている。これを古典漢語ではniug(呉音でニュウ、漢音でジュ)という。これを代替する視覚記号として儒が考案された。
儒は「需(音・イメージ記号)+人(限定符号)」と解析する。需にコアイメージの源泉がある。需には「柔らかい」というイメージがある( 795「需」を見よ)。「柔らかい」は物理的なイメージだが心理的・性情的なイメージにも転用できる。したがって儒は武張ったところがなく、物腰が柔らかい人を暗示させる。
古典の注釈に「儒は柔なり」「儒は弱なり」とある。また上記の『論語』の注釈には「儒なる者は濡なり。夫れ学を習ひ文を事とすれば、則ち身中を濡潤す。故に久しく習ふ者を謂ひて儒と為すなり」とある。教養によって身を潤す人が儒であるという。濡にも「柔らかい」のイメージがある。儒は猛々しい武人に対して、弱々しく柔らかい文人をいう言葉である。