「詔」

白川静『常用字解』
「形声。音符は召。召はᄇ(祝詞を入れる器の形)を供えて祈り、それに応えて神霊が降下する形で、召された神霊を示す。その召された神霊の告げることを詔という」 

[考察]
形声の説明原理がなく会意的に説くのが白川漢字学説の特徴である。召(召された神霊)+言→召された神霊が告げるという意味を導く。「天子の臣下に対する仰せ言(みことのり)」はその転義だという。
召の解字の疑問については875「召」で述べたので繰り返さない。詔に「召された神霊が告げる」という意味があるだろうか。そんな意味はあり得ない。字形の解釈と意味を混同している。これは白川漢字学説全般に当てはまる傾向である。
意味とは「字形の意味」ではなく「言葉の意味」であり、言葉の使われる文脈から判断し理解するものである。詔は古典に次の用例がある。
 原文:夫爲人父者、必能詔其子。
 訓読:夫れ人の父為(た)る者は、必ず能く其の子に詔(つ)ぐ。
 翻訳:父親たる者は自分の子に告げて諭すものだ――『荘子』盗跖
詔は上の者が下の者に告げ知らせる、また、人民に告げて教え諭す意味で使われている。これを古典漢語でtiɔg(呉音・漢音でセウ)という。これを代替する視覚記号として詔が考案された。
詔は「召(音・イメージ記号)+言(限定符号)」と解析する。召は手首を⁀の形に曲げておいでおいでという言葉をかけつつ、A点にあるものをB点に近づけさせる(引き寄せる)状況を暗示させる図形である(875「召」を見よ)。召は「(近くまで)引き寄せる」「呼び寄せる」というイメージを表す記号になる。したがって詔は人を呼び寄せて言葉を告げる状況を暗示させる。この図形的意匠によって、上記の意味をもつtiɔgを表記した。
詔を天子が人民に教え諭す言葉(みことのり)の意味に限定して用いるようにさせたのは秦の始皇帝である。