「辛」

白川静『常用字解』
「象形。把手のついている大きな針の形。入れ墨をするときに使用する。入れ墨をするときの痛みを辛といい、“つらい、きびしい” の意味となり、その意味を味覚の上に移して“からい”の意味となる」

[考察]
字形から意味を引き出すのが白川漢字学説の方法である。入れ墨用の針→入れ墨するときの痛みという意味を導く。
言葉という視点が欠けているのは白川漢字学説の全般的は特徴である。意味は「言葉の意味」であって字形から出るものではない。入れ墨するときの痛みが辛(つらい)というのは言葉の意味とは言えない。辛の意味は入れ墨とは無関係である。
辛は甲骨文字では十干の第八位に使われている。十干は十二支とともに序数詞の一種で、これの起源については数の起源の問題に絡んでいる。ここでは述べる余裕がない。次の文献が参考になろう。
 『数の漢字の起源辞典』 (東京堂出版、2016年)
辛の古典における用例を見てみよう。
①原文:莫予荓蜂 自求辛螫
 訓読:予をして蜂を荓(う)ちて 自ら辛螫を求めしむる莫かれ
 翻訳:私が蜂を叩いて 自ら蜂の痛い一刺しを招かせないようにしておくれ――『詩経』周頌・小毖
②原文:凡和、春多酸、夏多苦、秋多辛、冬多鹹。
 訓読:凡そ和は、春に酸多く、夏に苦く、秋に辛多く、冬に鹹多し。
 翻訳:一般に調味では、春には酸味を多目に、夏には苦味を多目に、秋には辛味を多目に、冬には塩辛さを多目にする――『周礼』天官・食医

①は身や心を刺激するような感じ(痛い)の意味、②は舌をひりひりさせるような味(からい)の意味である。これを古典漢語ではsien(呉音・漢音でシン)という。これを代替する視覚記号として辛が考案された。
辛はナイフの類の刃物を描いた図形である。しかし実体に重点があるのではなく、機能に重点がある。刃物は物を切ることが用途である。ここに「断ち切る」というイメージや「刺激を与える」というイメージがある。このコアイメージから生まれた語に新・薪・親がある。①②の意味もこのコアイメージから実現されたものである。①は痛覚、②は味覚であるが、心理的な刺激の場合は「つらい、苦しい」という意味が実現される。これが辛苦・辛酸の辛である。ちなみに英語のbitterはbite(かじる)に由来し、舌を刺すように苦い→つらいの意味になるという(『英語語義語源辞典』)。辛の意味展開と似ている。