「侵」

白川静『常用字解』
「形声。音符は𠬶。𠬶は帚(箒の形)を手(又)に持つ形で、寝殿の中を、帚に香りをつけた酒をふりかけ、帚を振って祓い清めることを示す。その酒気がしだいに寝殿の中に浸透し、酒気に浸って清められていくことを浸という。酒気がしみわたるように人に浸透していくことを侵といい、“おかす、そこなう” の意味となる」


[考察]
「帚+又」という舌足らず(情報不足)な図形から、なぜ「寝殿の中を、帚に香りをつけた酒をふりかけ、帚を振って祓い清める」という意味が出るのか。あまりに夥多な情報を読み過ぎている。また浸を媒介にして侵の意味を「酒気がしみわたるように人に浸透していく」の意味とするのもおかしい。こんな意味は侵にない。
字形から意味を引き出すのは無理である。恣意的な解釈に陥りがちである。意味は「言葉の意味」であって字形から出るものではない。言葉の使われる文脈から出るものである。侵は次のような文脈で使われている。
 原文:侵阮徂共 王赫斯怒
 訓読:阮を侵して共キョウに徂(ゆ)く 王赫として斯(こ)れ怒る
 翻訳:阮[国名]に侵入して共[国名]に進むと 王はかっと怒った――『詩経』大雅・皇矣

侵は他人の領土・領分に段々と入っていく意味で使われている。これを古典漢語でts'iәm(呉音・漢音でシム)という。これを代替する視覚記号として侵が考案された。
侵は「𠬶(音・イメージ記号)+人(限定符号)」と解析する。𠬶は「帚+又」を合わせたものだが、単独字としては存在しない。侵・浸・寝などの音・イメージ記号として特別に作られた記号である。帚は箒(ほうき)、又は手の動作に限定する符号である。𠬶は箒を手にして掃き進める情景を設定した図形。ただし「掃く」という意味を表すのではない。「掃く」という行為のある面に焦点を置くのである。箒でさっとはらうのではなく、ごみや汚れのある空間の端から段々と全体に(終点まで)掃き進めていくことである。ここに「次第に(じわじわと)深く入り込む」というイメージがある。このイメージを表すのがAである。したがって侵は他人の領分にじわじわと深く入り込む情景を設定した図形である。