「親」

白川静『常用字解』
「会意。辛と木と見とを組み合わせた形。辛は把手のついた大きな針。この針を投げて位牌を作る木を選び、その新しく切り出した木で作った位牌を見て拝む形が親である。新しい位牌は父母の位牌であることが多く、廟の中で拝まれている位牌は父母の位牌であるから、親は“おや、父母” の意味となる」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなく会意的に説く特徴がある。親と辛は音のつながりがあるから形声のはずだが、あえて会意とする。字形分析のほかに意味の解釈にも疑問がある。なぜ木が位牌なのか。なぜ針を投げて位牌用の木を選ぶのか。なぜ親の字が位牌を拝む形になるのか。理解できない。さらに、なぜ新しい位牌が父母の位牌なのか。なぜ廟で拝まれる位牌が父母の位牌なのか。これから「おや」の意味が生まれるというが、意味展開に必然性がない。
字形から意味を導くと恣意的な解釈に陥りがちである。意味の説明に合理性がない。意味を説明するのに言葉という視点が欠けている。これは白川漢字学説の全般的な特徴である。
言葉という視点がないから白川漢字学説では形声文字の説明ができない。形声の説明原理とは言葉の深層構造に掘り下げ、コアイメージを捉えて、語源的に意味を説明する方法である。ただし意味は文脈から知ることができる。その意味を成り立たせる深層構造を探るのが形声の説明原理である。
親の古典における用例を見てみよう。
①原文:汎愛衆而親仁。
 訓読:汎く衆を愛して仁に親しめ。
 翻訳:広く大衆を愛して仁者と親しみなさい――『論語』学而
②原文:王親命之
 訓読:王親(みづか)ら之に命ず
 翻訳:王様は自ら彼に命じた――『詩経』大雅・韓奕
③原文:悦親有道。
 訓読:親を悦ばすに道有り。
 翻訳:親を喜ばすには方法がある――『孟子』離屢上

①は身近に接する(したしむ、したしい)の意味、②は自分で直接に(みずから)の意味、③はおやの意味で使われている。これを古典漢語ではts'ien(呉音・漢音でシン)という。これを代替する視覚記号として親が考案された。
古人は「親は襯シン(肌着)なり」と語源を捉えている(『釈名』)。これには「肌身に接する」というイメージがある。死体をじかに覆うひつぎを櫬シンというが、これも同じイメージをもつ。「二つのものが接して触れ合う」のイメージと言い換えてもよい。このイメージは刃物で物を切る行為からも生まれてくる。切る行為の前提には物に近づいて接触する事態がある。物に触れる行為から切る行為につながる。切(ts'et)という言葉にも「切る」と「触れる」「近づく」の意味がある。切迫の切は対象に近づく(身近に迫る)の意味、親切の切は心にひしひしと感じられる(身に迫ってこたえる)の意味である。親も「触れる」「近づく」というイメージから「身近に接する」というイメージに展開したものである。親と切は似たイメージがあるので親切という熟語が発生した。
以上は語源的に見たが、次は字源から見る。もっとも字源と語源は切り離せない。字源は語源の究明があってこそ説得力が出る。語源は字源の恣意的な解釈の歯止めになる。
親は「亲シン(音・イメージ記号)+見(限定符号)」と解析する。亲は「辛(音・イメージ記号)+木(限定符号)」に分析できる。辛は刃物の形であるが、実体に重点を置くのではなく、機能に重点が置かれる。そこから「切る」というイメージが取られる。亲は木を切る情景を設定した図形である。この意匠によって「(刃物を近づけて)切る」というイメージ、さらに「物に触れて生々しく刺激する」というイメージを表すことができる(976「新」を見よ)。このイメージから「じかに接する」「肌身に触れる」というイメージにも展開する。かくて親は肌身に接していつも見慣れている状況を暗示させる図形である。この図形的意匠によって、上の①の意味をもつts'ienを表記する。
「肌身に接する」「じかに接する」というコアイメージから他人に任せるのではなく自分でじかに(直接に)という意味に展開する。これが上の②の意味。親展・親政の親はこれである。また、おやは子にとって肌身に触れる存在であり、血縁関係ではいちばん近いし、いつも身近に接している。だから③の意味が生まれる。