「人」

白川静『常用字解』
「象形。立っている人を横から見た形。“ひと、人間” をいう」

[考察]
「人」の図形が「ひと」の意味であるというのは「人」という字が「ひと」の意味で使われているということが予め分かっているからであろう。もし分かっていないと「人」の図形が「ひと」だと知るのは困難であるに違いない。一~三はともかく、大にしても立にしても、どんなに単純な字についても、それは言えることである。
何を言いたいかと言えば、字形から直接意味を知ろうとするのは無理であり、むしろ誤った方法と言いたいのである。白川漢字学説は字形から直接意味を導く方法であり、これを字形学と称している。字形と意味が一対一に対応する場合(象形文字の一部)は偶然ながら当てはまるが、それ以外は食い違うことが多い。字形は意味を全面的に表すことはできず、近似的であり、かなりアバウトなものである。
人が「ひと」であるのは次のような文脈から知れるのである。
①原文:嗟我懷人
 訓読:嗟(ああ)我人を懐(おも)ふ
 翻訳:ああ私は人を恋しく思います――『詩経』周南・巻耳
②原文:有子七人
 訓読:子七人有り
 翻訳:[母には]七人の子がありました――『詩経』邶風・凱風

①は「ひと」の意味、②は人を数える助数詞として使われている。これを古典漢語ではnien(呉音でニン、漢音でジン)という。これを代替する視覚記号として人が考案された。
「人」という図形は白川の言う通りであろう。「ひと」というのは抽象的な概念である。具体的には男あり女あり、老人あり子どもあり、さまざまである。これらの上位概念が「ひと」である。これを図形として表象するのが「人」である。図形はきわめて単純な略画である。すべての人間に対応させるには略画にせざるを得ないだろう。略画は書きやすいし覚えやすい。しかし略画は抽象化されているからかえって意味表象を犠牲にする。単純な字形ほど字源が難しいのはそのせいである。字形から意味を引き出す危険性はここにもある。
「人」の場合は字形は単純で分かりやすいが、なぜ「ひと」をnienというのか。これは語源の問題である。早くも『孟子』に「仁は人なり」という語源説があり、漢代になると「人は仁なり」と説かれた。漢の鄭玄は「人とは相人偶する(カップルのように親密になる)の人なり」と説明している。つまり親しい仲間をnienといったというのである。近代の個人という概念ではなく、共同体における互いに親しみ合う仲間という意味である。この語源説を拡大したのは藤堂明保である。藤堂は人・仁・二・爾・昵・年・日などはNER・NET・NENという音形をもち、「二つくっつく」という基本義を共有する単語家族であるとした(『漢字語源辞典』)。藤堂学説を正しく利用すると漢字の意味の理解が深まるだろう。