「赤」

白川静『常用字解』
「会意。大と火とを組み合わせた形。大は手足を広げて立つ人を正面から見た形。これに火を加える形が赤で、穢れを祓い清める儀礼をいう」

[考察]
白川漢字学説は字形の解釈をストレートに意味とする。図形的解釈と意味を混同するのが白川漢字学説の特徴である。大(手足を広げて立つ人)+火→穢れを祓い清める儀礼という意味を導く。
赤にこんな意味があるだろうか。あり得ない。図形的解釈と意味が混同されている。だいたい人を火であぶる(焼く)ような行為がなぜ「穢れを祓い清める」ことになるのか。こんな宗教儀礼があったのか。証拠があるか疑わしい。
また「穢れを祓い清める儀礼」からなぜ「あか」の意味になるのか。白川は「火や水は人を祓い清めるために使用されることがあった。赤子・赤心・赤地・赤貧のように、“はだか、あるがまま”の意味に用いる。“あか、あかるい”の意味にも用いる」と述べているが、意味展開に必然性がない。
言葉という視点がなく字形から意味を引き出すため、言葉の転義を説明する意味論がなく、合理的な説明ができない。
言葉という視点から赤を見てみよう。古典に次の用例がある。
①原文:莫赤匪狐 莫黑匪烏
 訓読:赤きとしえ狐に匪(あら)ざるは莫く 黒きとして烏に匪ざるは莫し
 翻訳:赤いものはキツネにほかならぬ 黒いものはカラスにほかならぬ――『詩経』邶風・北風
②原文:大人者不失其赤子之心者也。
 訓読:大人なる者は其の赤子の心を失はざる者なり。
 翻訳:大人とは生まれたての子の心を失っていない者をいう――『孟子』離屢下
③原文:晉國大旱、赤地三年。
 訓読:晋国に大旱あり、赤地三年。
 翻訳:晋国に大旱魃があり、三年の間、大地に何も無くなった――『韓非子』十過

①はあか色の意味、②は純粋である意味、③は何も無い意味である。これを古典漢語ではt'iak(呉音でシャク、漢音でセキ)という。これを代替する視覚記号として赤が考案された。
赤は「大+火」に分析できる。大(立っている人)を実体として見ると、人を火であぶる(焼く)という意味になりかねない。そうではなく、大は「大きく広げる」というイメージを示す記号と見るべきである。赤は「大(イメージ記号)+火(イメージ補助記号)」と解析する。火が四方に広がり燃えさかる情景を設定した図形である。この図形的意匠によって、あか色を意味するt'iakの表記とするのである。あか色は火の色から発想されたと言えよう。
古典漢語では意味展開はコアイメージによることが多いが、メタファーによって転義することもある。これはすべての言語に普遍的な意味論の原理である。赤色は血の色を連想させる。ここから、他のものが混じっていない(純粋である)という意味に展開する。これが上の②である(赤心・赤誠の赤)。また余計なものがない→全く何も無いという意味に展開する。これが③である(赤貧・赤裸の赤)。