「素」

白川静『常用字解』
「象形。糸を染めるときの形。糸を染めるとき、糸束の本のところを結んだままで染汁の入った鍋に漬けるから、その結んだところは素もとのままの白い糸で残る。その白い糸で残った部分を素といい、“しろぎぬ、しろ、もと、もとより”の意味となる」

[考察]
字形の解剖にも意味の取り方にも疑問がある。素は二つの部分に分析できるから象形ではない。糸を染める形には見えない。また糸を染める際に染め残った部分があるというのは解せない。染め残った部分が白いから白絹のの意味が出たというのは不自然である。
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法であるが、恣意的な解釈に陥りがちである。意味は字形から出るものではない。「字形→意味」の方向ではなく、「意味→字形」の方向に漢字を見るのが正しい筋道である。
字形から出発するのではなく、言葉という視点から出発し、意味を確かめることが先決である。そのためには古典における用例に当たる必要がある。
①原文:見素抱樸、少私寡欲。
 訓読:素を見(あらは)し樸を抱けば、私少なく欲寡なし。
 翻訳:白絹を外に現し、荒木を帯びるなら、私欲は少なくなるだろう――『老子』第十九章
②原文:充耳以素乎而 尚之以瓊華乎而
 訓読:充耳は素を以てす 之に尚(くは)ふるに瓊華を以てす[乎而はリズム調節詞で読まない]
 翻訳:イヤリングの玉は白色で 加えてきらびやかな腰の帯玉――『詩経』斉風・著

①は白絹の意味、②は白い意味で使われている。これを古典漢語ではsag(呉音でス、漢音でソ)という。これを代替する視覚記号しとして素が考案された。
素は篆文の字体は「A[亻の左右に仌を書いた形]+糸」に分析できる。Aは垂や華に含まれる字で、スイと読む。Aは草木の枝葉が垂れ下がる形である。ただし具体は捨象して、ただ「垂れ下がる」というイメージを表す記号である。素は垂れ下がる蚕の糸を暗示させる。これは図形的意匠であって意味ではない。絹織物の原料となる、染色・加工していない絹糸を素の図形で表すのである。染色していないから当然白色である。だから①と②の意味が実現される。
意味は①から②へ、さらに、生地のままで飾り気がない意味(質素の素)、手を加える前のもとになるものの意味(要素の素)に展開する。