「相」

白川静『常用字解』
「会意。木と目とを組み合わせた形。相は木を目で“みる” の意味である」

[考察]
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。木+目だから「木を目で見る」の意味を導く。相に「みる」の訓があるから、このように解釈できるが、もし意味が分からないで字形から意味を導くとしたら、果たして「木を目で見る」と解釈できるだろうか。
「字形→意味」の方向に漢字を見ると勝手な解釈に陥りやすい。相は偶然うまく解釈できたに過ぎない。しかし相に「木を目で見る」という意味があるだろうか。実はそんな意味はない。意味はただ「みる」であり、木も目も意味素に入らない。図形的解釈と意味を混同している。
また相に宰相の相(たすける)、相互の相(あい)などの使い方(意味)がある。これらは「見る」と何の関係があるのか。白川は「樹木の盛んな生命力をそれを見る者に与え、見る者の生命力を助けて盛んにすることになるので、“たすける”の意味となる。たすけるというのは、樹木の生命力と人の生命力との間に関係が生まれたことであるから、“たがいにする、たがいに、あい”の意味となる」と述べている。「見る」から「たすける」「たがいに」への意味展開の説明には偶然の要素が強く、合理性がない。言葉という視座がないので、言葉の深層構造への着眼がない。言葉の深層構造、すなわちコアイメージこそ意味の展開の契機、原動力なのである。
まず古典における相の用例を見てみよう。
①原文:相鼠有皮 人而無儀
 訓読:鼠を相(み)れば皮有り 人にして儀無し
 翻訳:鼠を見ると皮がある [あいつは]人間なのに礼儀がない――『詩経』鄘風・相鼠
②原文:管仲相桓公。
 訓読:管仲、桓公を相(たす)く。
 翻訳:管仲は桓公を輔佐した――『論語』憲問
③原文:邂逅相遇 適我願兮
 訓読:邂逅して相遇ふ 我が願ひに適(かな)へり
 翻訳:思いがけず会えました 私の願いは叶いました――『詩経』鄭風・野有蔓草

①は対象をよく見定める意味、②は主たるものの側について従なるものが支え助ける意味、③はあい互いにの意味で使われている。これを古典漢語ではsiang(呉音でサウ、漢音シヤウ)という。これを代替する視覚記号しとして相が考案された。
相は「木+目」という極めて舌足らず(情報不足)な図形である。①の意味を表すための工夫だと考えれば、見る主体と見られる対象が向き合う情景を設定した図形と解釈できよう。図示すると▯↔▯の形や▯⇄▯の形である。これは「二つのものが向き合う」、また「二つ(また二つ以上)のものが離れて並ぶ」というイメージである。
siang(相)という言葉の深層構造にはこのようなコアイメージがあり、具体的文脈で実現されたのが上記の意味である。
「二つのものが▯↔▯の形に向き合う」というイメージから、①の意味が実現される。見(視界に現れる)とは違い、対象にも重点があるのが相の見方である。だから人相や地相を見るという意味もある。対象に視点を置いた場合が「姿、様子」という意味である。
また「二つのものが▯↔▯の形や▯⇄▯の形に向き合う」というコアイメージから、主従がペアになる関係、従が主を支える、また支えるもの(輔佐するもの)という意味が実現される。これが相国・宰相の相である。日本で使う首相・文科相などの相もこれから来ている。助けられるものは君主・天子であるが、日本では天皇である。ただし天皇が国民統合の象徴だとすれば、助けられるものは国民という解釈も成り立つ。
また▯↔▯や▯⇄▯の中間の↔や⇄の部分に視点を置くと、互いに向き合う関係であるから、③の意味が実現される。相互・相対の相はこれである。