「存」

白川静『常用字解』
「会意。才と子とを組み合わせた形。才は表示として立てた標木の上部に横木をつけ、そこにㅂ(祝詞を入れる器の形)をつけた形で、標木を立てて場所を聖化する儀礼で、在のもとの字である。才に子をそえた存は聖化の儀礼によって、子が聖化されて子の生存が保障されることを示し、“ある、神聖なものとしてある、いきる、たもつ” の意味となる」

[考察]
才の字解の疑問については621「才」で述べた。才のどこにもㅂは含まれていない。祝詞で解釈する字源説は疑問である。それに存に「神聖なものとしてある」という意味はあり得ない。意味は字形から出るものではなく、言葉の使われる文脈から出るものである。古典に存の用例を見てみよう。
①原文:有女如雲 雖則如雲 匪我思存
 訓読:女有り雲の如し 則ち雲の如しと雖も 我が思ひの存するに匪(あら)ず
 翻訳:雲のような美女たちがいる 雲のようだといっても 私の思い人はそこにいない――『詩経』鄭風・出其東門
②原文:存其心養其性、所以事天也。
 訓読:其の心を存し其の性を養ふは、天に事(つか)ふる所以なり。
 翻訳:心を大切に保ち、本性を養うことが、天に仕える理由である――『孟子』尽心上
③原文:外其身而身存。
 訓読:其の身を外にして身存す。
 翻訳:[聖人は]自分の体を無視するから、命をながらえることができる――『老子』第七章
④原文:養幼少、存諸孤。
 訓読:幼少を養ひ、諸孤を存す
 翻訳:幼い子らを養い育て、孤児たちをいたわる――『礼記』月令

①は何事もなく同じ状態を保ってそこにある意味、②は大切にとどめて保つ意味、③は無事に生きている意味、④は大切にいたわる意味で使われている。これを古典漢語ではdzuәn(呉音でゾン、漢音でソン)という。これを代替する視覚記号しとして存が考案された。
古典に「存は在なり」とあり、存と在は同じような意味と考えられているが、違いがある。在が場所に視点を置くのに対し(訓読では在は「~(場所)にあり」と読む)、存は物に視点がある。「その物が無事に確かにある」というイメージの語である。
存は「才(音・イメージ記号)+子(限定符号)」と解析する。才については621「才」で述べているがもう一度振り返る。才は災に含まれる 巛と由来が同じである。[巛+一](巛の真ん中に一を引いた形。葘の中に含まれている)がもとの字でサイと読む。巛は川(水の流れの形)と同じで、[巛+一]は水の流れを一の印で遮り止める情景を表現している。これは川をせき止めるもの、堰せき(ダム)でもある。この堰を象形的に表現したのが才の図形である。漢字の造形法は実体に重点があるのではなく形態・機能に重点がある。才は堰を意味するのではなく、その機能である流れをせき止めることにイメージを取るのである。だから才は「途中で断ち切る」というイメージを示す記号になりうる。これを図示すると―↓―の形、あるいは→|の形である。これは「切る」のイメージでもあり、「止める」のイメージでもある。後者から「じっとそこに止まる」というイメージに展開する。したがって存は子どもをいたわって、じっと無事な状態にとどめておく状況を暗示させる図形である。上の④を念頭に置いて図形的意匠が作られているが、この意匠によって、物がどこにも動かずにじっととどまって、無事にそこにあることを意味するdzuәnを表記するのである。
①から②③④への意味展開は明白であろう。白川は「存在(現実にそこにあること)とは、もと聖化されて清められたものとしてあるの意味であった」と、あくまでも祝詞にこだわった解釈をしている。