「体」
正字(旧字体)は「體」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は豊れい。周礼に“體名肉物を辨ず” とあって、もと犠牲の“からだ”をいう」

[考察]
すべての漢字を会意的に説くのが白川漢字学説の特徴であるが、本項では豊から会意的に説明できず、形声としている。しかし白川漢字学説には形声の説明原理がない。
会意とはAの意味とBの意味を足し合わせた「A+B」をCの意味とする手法。しかし本当の会意とはAのイメージとBのイメージを平行・対比・結合させて、A・Bとは全く違った新たなCというイメージを作り出す方法である。例えば日のイメージと月のイメージとを結合させて、日とも月とも関係のない「明るさ」という概念を作り出す。
一方、形声の説明原理とは言葉の深層構造に掘り下げ、コアイメージを捉えて語源的に意味を説明する方法である。C=「A(音・イメージ記号)+B(限定符号)」と解析し、Aは言葉の深層構造にあるコアイメージを表す記号、Bは言葉の意味のカテゴリー、あるいは意味領域を示す記号として、なぜCの意味をもつ言葉が「A+B」によって表記されたかの理由を説明する。
意味が字形にあるとして、字形の解釈をもって意味とするのが白川漢字学説の方法である(白川はこれを「字形学」と称する)。これは根本的に誤った方法である。というのは意味は字形に属する概念ではなく、言葉に属する概念だからである。言語学では言葉(記号素)は音と意味の結合体で、意味は言葉に内在する概念と定義される。
では意味はどうして知ることができるのか。それは言葉の使われる文脈から判断し把握するのである。文脈がなければ意味を知りようがない。
體は次のような古典の文脈がある。
①原文:相鼠有體 人而無禮
 訓読:鼠を相(み)れば体有り 人にして礼無し
 翻訳:ネズミにはからだがあるけれど 人間なのに礼がない――『詩経』鄘風・相鼠
②原文:子夏子游子張皆有聖人之一體。
 訓読:子夏・子游・子張は皆聖人の一体有り。
 翻訳:子夏・子游・子張はみな聖人の本性をもっている――『孟子』公孫丑上
③原文:爾卜爾筮 體無咎言
 訓読:爾の卜爾の筮ゼイ 体に咎言キュウゲン無し
 翻訳:あなたの立てた占いの 形に凶の言葉は出なかった――『詩経』衛風・氓

①はからだの意味、②は何らかの形や機能・性質をもつものの意味、③は形・様子・スタイルの意味で使われている。これを古典漢語ではt'er(呉音でタイ、漢音テイ)という。これを代替する視覚記号しとして體が考案された。
體は「豊(イメージ記号)+骨(限定符号)」と解析する。豊は豐ホウ(ゆたか)とは別で、レイと読み、禮に含まれる。豊は豆(たかつき)に供え物が形よく盛りつけられている図形で、儀礼用の器である。しかし実体に重点があるのではなく、形態に重点がある。豊はその形態的特徴から「形よく整う」というイメージを表すことができる。骨はほねと関係があることを示す限定符号。したがって體は形よく組み立てられた骨骼を暗示させる図形である。
古典漢語では「からだ」に三つの捉え方がある。生理学的に捉えたのが身で、生命を持って生きている生身のからだを身という。解剖学的に捉えたのが體と軀である。骨骼が組み立てられている形態から発想されたのが體、胴体・四肢など各部分に分かれている形態から発想されたのが軀である(957「身」を見よ)。
體(体)は骨骼が整然と組み立てられたからだなので、体系・全体というように、部分から成る統一体、システムという意味が生まれる。ここから上の②、また③へと意味が展開する。
ちなみに日本語の「からだ」はカラ(殻、抜け殻)と同根で、「生命のこもった肉体を身というのに対して、生命のこもらない形骸としての身体」の意味という(『岩波古語辞典』)。古代の日本人は身に「み」の訓、体に「からだ」の訓をつけたが、漢字の意味をよく把握したと言わなければならない。