「退」

白川静『常用字解』 
「会意。彳と日と夊とを組み合わせた形。彳は十字路の形である行の左半分の形で、少し歩むの意味がある。日は食器の𣪘。夊は後ろ向きの足あとの形。退は祭祀が終わって、𣪘に盛った供え物をひきさげる形で、“ひく、ひきさげる”の意味となる」

[考察]
字解にも意味の取り方にも疑問がある。なぜ「日」が𣪘(食器)なのか分からない。退に「食器をひきさげる」といった意味があるだろうか。そんな意味はありそうにない。
古典における退の用例を見てみる。
①原文:大夫夙退 無使君勞
 訓読:大夫よ夙(つと)に退き 君をして労せしむる無かれ
 翻訳:大夫らよ早く退出しなさい 殿様を煩わせないように――『詩経』衛風・碩人
②原文:聽言則答  譖言則退
 訓読:聴言には則ち答へ  譖言シンゲンには則ち退く
 翻訳:耳に入りよい言葉には答えるが 耳に逆らう言葉ははねつける――『詩経』小雅・雨無正

①はある場所からひきさがる(しりぞく)の意味、②はある物事をよそにのける(しりぞける)の意味で使われている。これを古典漢語ではt'uәd(呉音・漢音でタイ)という。これを代替する視覚記号しとして退が考案された。
退は「日(太陽。イメージ記号)+夊(引きずる足。イメージ補助記号)+彳(限定符号)」(これは篆文の字体で、古文では彳ではなく辵となっている)と解析する。太陽は擬人化されている。だから夊の補助記号が添えられた。夊夊(スイスイ)は足を引きずってすすむさま。彳・辵は歩行・進行と関係があることを示す限定符号である。したがって退は太陽がゆっくりと西の空の下に下がっていく情景が設定されたもの。この図形的意匠によって、ある場所から引き下がることを意味するt'uәdを表記した。