「但」

白川静『常用字解』
「形声。音符は旦。説文に“裼かたぬぐなり” とあり、肩の肌をあらわすことをいうとするが、その意味には袒・襢の字を用いる。“ただ”の意味に使用するのは、その音を借りる仮借の用法である」

[考察]
白川漢字学説には言葉という視点がないから、形声の説明原理が本来的にない。形声も会意的に説くのが特徴である。しかし本項では会意的に説明できず、字源を放棄している。
『説文解字』にある通り但は「肩の肌を現す」という意味で、左袒の袒と同じである。肩のあたりの衣を脱いで肌をあらわにすることを古典漢語ではdan(呉音でダン、漢音でタン)といい、但・袒と表記する。なぜdanというのか。この語のコアイメージを考えると、隠れて見えないものが表に現れるというイメージである。元旦の旦は太陽が現れる時刻、「あさ」の意味であり、誕生の誕は赤子が母胎から生まれ出ることであり、丹は赤い鉱物が採掘されて地中から現れ出た、その鉱物、丹沙(硫化水銀)である。これらの語には「暗い所から明るい所に現れ出る」という共通のコアイメージがある。だから肌脱ぎになることをdanといい、「旦(音・イメージ記号)+人(限定符号)または衣(限定符号)」を合わせた但・袒で表記するのである。
次にこの但をなぜ「ただ」「ただし」に用いるのか。普通は仮借で説明されている。仮借とはaの意味をもつAという語の表記(文字)Áがないとき、Áの代わりに、Aと音の似たBを表記するB´を借用するというもの。但は何から借りたのか。その何が分からないと仮借とは言えない。一説では単にひとつ(単一)の意味があり、「ただひとつ」を単で書くべきなのに同音の但を借用した、こんな説もある。これは納得はできるが、なぜわざわざ「肌を脱ぐ」の意味の但を借りたのか、その動機がはっきりしない。
意味や意味展開の説明がつかないときは仮借説で逃げるほかはないが、あえて推測してみよう。「ただ」「ただし」という接続詞は前提にある物事を限定し新たに別の物事を提示する用法である。前提の物事に問題がある場合、それを明らかに説明するために別の物事を証拠として持ち出す。この論法に、不明な物事を明らかにするという意図がある。これは「暗い(見えない、分からない)所から明るい(見える、分かる)所に現し出す」というdanやtanという語のコアイメージと関わっているのではなかろうか。このように推測すると、但を「ただ」「ただし」の接続詞に使われる理由がおぼろげながら分かるのではないか。