「男」

白川静『常用字解』
「会意。力は耒すきの形。農地(田)と農具の耒とを組み合わせて。耕作のことを示すが、古くは農地の管理者を男といった。のち五等の爵のひとつに用いる」

[考察]
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。田(農地)+力(農具)→農地の管理者という意味を導く。
男に「農地の管理者」という意味があるだろうか。意味とは「言葉の意味」である。意味は言葉と結びついたものであるから、具体的な文脈で使われていなければ意味とは言えないだろう。古典には次のように使われている。
 原文:維熊維羆 男子之祥
 訓読:維(こ)れ熊維れ羆 男子の祥
 翻訳:クマの夢 ヒグマの夢は 男の子が生まれるしるし――『詩経』小雅・斯干
男は明らかに「おとこ」の意味である。これを古典漢語ではnəmといい、それを代替する視覚記号として男が考案された。
もし「農地の管理者」という意味があったとしたら、それは「おとこ」の意味からの転義であろう。だいたい「農地の管理者」は「田」と「耒」から推測された意味である。図形的解釈と意味を混同するのは白川漢字学説の全般的な特徴である。
意味は字形にあるのではない。意味を字形化しようと工夫したのが漢字であるが、字形そのものが意味を表すのではない。暗示させるだけである。字形の解釈と意味は一致しないことが多い。「字形→意味」の方向に漢字を見ると間違ってしまう。「意味→字形」の方向に漢字を見るのが正しい筋道である。
では意味はどうして分かるのか。それは文脈をみれば分かる。男は上記のような文脈で使われているから「おとこ」の意味だと分かる。字形から意味を見ようとすると「農地の管理者」になりかねない。しかしこんな意味は空想の産物に過ぎない。
古典漢語でなぜ「おとこ」をnəmといい、男と表記したのか。前者の疑問に答えるのが語源、後者が字源である。語源から先に考え、その後に字源を考えるのが筋である。なぜなら言葉が先であり、文字は後からできたものだからである。また語源を先にしないと、字源が恣意的になるからである。語源は字源の勝手な解釈の歯止めになる。
nəm(男)の語源については漢代の文献には「男は任なり」という語源説がある。これを発展させたのは藤堂明保である。任は「ふくらむ」というコアイメージをもつ語だが、「ふくらむ」は中に物が詰まった状態であるから、「中に入れ込む」→「ふくらむ」というイメージに転じたと考えてよい。藤堂は、nəmに類似する一連の言葉に「中に入れ込む」というコアイメージ(藤堂の用語では「基本義」)があると見、これらを一つの単語家族として括った。入・内・納・壬・任・妊・衽・男・南などがこの仲間で、音のパターンはNÊP・NÊMという類型であるという(『漢字語源辞典』)。
なぜ男に「中に入れ込む」というコアイメージがあるのか。藤堂は婚姻の形態にあると推測している。つまり入り婿婚の名残と見ている。しかし殷代に母系制や入り婿婚が存在したか確証がない。
「中に入れ込む」というイメージは別の解釈もできる。「中に入れ込む」から「ふくらむ」へのイメージ転化があるように、「中に力が入って充実する」というイメージにも転化しうる。これはまさに「おとこ」の特徴ではないか。古典漢語では「おんな」は肉体的特徴から「柔らかい」というイメージで捉えられ、niagという(865「女」を見よ)。女に対する「おとこ」は「固い」のイメージではなく、肉体的特徴である力強さから発想されたと考えられる。力が体に貯えられていることと「中に入れ込む」というイメージを連合させ、このコアイメージのある一連の語群との同源意識が生じ、「おとこ」をnəmと呼んだと考えてよいだろう。
nəmの表記として男が造形されたのは、このようなイメージを図形化しようと工夫した結果である。「田+力」を合わせたのが男である。田は「たんぼ」「田を作る(耕作する)」と「狩り」の意味がある。どれを取っても力仕事である。白川は中国の文字学者の説に従い、力を耒(すき)の形としているが、これは「田」に引きずられた解釈である。力は筋肉から発想された語であることは疑いがない。「田」と「力」を合わせて力仕事に従事する状況を表現しようとした。しかし「力仕事に従事する人」という意味を表すのではない。「おとこ」の意味をもつnəmを表記するだけである。「田+力」は「おとこ」を暗示させる仕掛けに過ぎない。このような造形法を誤解すると、字形の解釈がそのまま意味となってしまう。世間の素人文字学者はたくさんいるが、たいてい字の形が意味を表していると考えているようだ。漢字はそんな俗説に乗せられやすい文字ではある。