「知」

白川静『常用字解』
「会意。矢は神聖なものとされ、誓約のときにそのしるしとして矢を用いるので矢ちかうとよみ、矢を折ることは誓うときの所作であった。口はᄇで、祝詞を入れる器の形。神に祈り、神に誓うことを知といい、“あきらかにしる、しる、さとる”の意味に用いる。神に誓ってはじめて“あきらかにしる、さとる” ことができるのである」

[考察]
証拠のない習俗から知の意味を導いている。矢に「ちかう」という意味もあるから、「神に祈り、神に誓う」という意味とするのであろう。だから矢を神聖なものとし、口を祝詞の器とする。
祝詞とは祈る文句であるからには、言葉(音声言語)であろう。これを器に入れるとはどういうことか。祈りの文句を文字に切り換えて、書写材料(竹簡・木簡、あるいは帛など)を器に入れるのであろうか。どう考えても不自然である。
また矢と器から「神に祈り、神に誓う」という意味が出るだろうか。こんな意味が知にあるだろうか。「神に誓ってはじめて明らかに知ることができる」というが、人間の認識が神との誓いに由来するのであろうか。
古典における知の用例を見てみよう。
①原文:大無信也 不知命也
 訓読:大いに信無きなり 命を知らざるなり
 翻訳:[彼女は]約束事を守らない 女の運命を知らないのだ――『詩経』鄘風・蝃蝀
②原文:民可使由之、不可使知之。
 訓読:民は之に由らしむべし、之を知らしむるべからず。
 翻訳:人民をそれ[政治]に従わせることはできるが、知らせることはできない――『論語』泰伯

①はしる、②はしらせるの意味である。これを古典漢語ではtieg(呉音・漢音でチ)という。これを代替する視覚記号しとして知が考案された。
同じ「しる」でも知と識は意味が違う。識はそのものを他と区別してしる(見分ける)という意味である(744「識」を見よ)。これに対して、知はもの自体を直観的にしる、つまり感覚が働いて外界の事物をはっきりとしることである。知と識は人間の認識の仕方の二つの様相を捉えた言葉である。
字源を見てみよう。知は「矢(音・イメージ記号)+口(限定符号)」と解析する。矢という実体に重点があるのではなく、矢の形態や機能に重点がある。矢は形態的にはまっすぐで短い直線状をなす。機能的には物に当てる。具体は捨象して「まっすぐ」「当てる」というイメージだけが取られる。口はくちや言葉と関わることを示す限定符号。したがって知は物事の本質をずばりと言い当てる状況を暗示させる図形と解釈できる。これは図形的意匠であって意味ではない。物事の本質をずばりと理解する、あるいは、意識を対象にまっすぐ向けてそれが何であるかが分かるという意味を表そうとするのである。これこそ知の意味である。
ちなみ矢には「ちかう」という意味もある。これは「まっすぐ」というイメージから派生したもの。「まっすぐ」は正しい、噓や偽りがないこととつながる。相手に噓がないとまっすぐに言い切ることを矢という。また矢には「つらねる」という意味もある。これも「まっすぐ」のイメージから派生する。一直線状に並べることを矢という。