「沖」

白川静『常用字解』
「形声。音符は中。説文に“涌き揺うごくなり” とあり、水がわき出る様子とするが、むしろ水の深く静かな状態をいう語であるらしい」

[考察]
会意的に説くのが白川流なのに、中からの説明がない。上の字源は会意的な説明になっていない。さりとて白川漢字学説には形声の説明原理がないから、これによる説明もない。中をただ音符としているだけである。
白川は音符を発音符号と考えているようである。そのような考えがむしろ 一般的かもしれない。しかし発音符号とは音素のレベルの用語である。言葉(記号素)は音素から構成されている。沖の推定音はdioŋで、四つの音素から構成されている。音素の一つ一つを発音符号と呼ぶ。ではdioŋの全体は何なのか。これは記号素の音声部分、つまり言葉の読み方である。日本語の場合を例に取ると、「おき」(oki)は二つの音節、三つの音素からできていて、「おき」は一つの言葉の読み方である。dioŋは「おき」全体と対応する。
dioŋという言葉(記号素)を図形化するために考案されたのが「中+水」を合わせた沖である。中は音符(発音符号)ではない。d、i、o、ŋという音素に分析して表示しているわけではない。しかも中の推定音はtioŋである。中は決して沖の音符(発音符号)ではない。ではなぜ中を選んで沖という図形にしたのか。ここに漢字の創造原理がある。
中を選んだのは、dioŋという言葉とtioŋ(中)という言葉の同源意識である。 
古典における沖の用例を見てみよう。
①原文:乘龍兮轔轔 高駝兮沖天
 訓読:竜に乗りて轔轔たり 高く駱(=馳)せて天に沖す
 翻訳:竜の車はりんりんと 高く駆けて天を衝く――『楚辞』九歌・大司命
②原文:道沖而用之或不盈。
 訓読:道は沖にして之を用ゐて或いは盈(み)たず。
 翻訳:道[宇宙の根源]は空虚だが、その働きはいっぱいにならないことだ――『老子』第四章

①は空間を突き抜けて上がる意味、②は空っぽの意味で使われている。「沖天の勢い」という場合の沖がもとの意味である。ここでなぜ中が選ばれたかの理由が分かる。1258「中」で次のように説明した。
「ある範囲・空間を上下または左右に突き通っていったその枠内の軌跡が“うち”であり、上下・左右のどちらにも片寄らない位置が“なか・まんなか”である。このようにして“なか”の概念が成立したと考えられる。(・・・)漢語の中は“突き通る”というコアイメージから“なか”の意味と“突き当たる”の意味が実現されたと考えてよい。後者は命中、的中の中である。これも説明できないと正しい語源説とはいえない。この両者を同時にもつ言葉がtiongであり、それを代替する視覚記号しとして考案されたのが中である。ここでやっと字源の話になる。ある枠(口)の上下に|(縦線)を突き通す図形が中である」
中は「突き通る」「突き抜ける」というのがコアイメージである。突き通る方法は上下(垂直)でも左右(水平)でも構わない。前者に視点を絞ったのが沖である。↑の形に上に突き上がる、突き抜けていくのが沖天の沖である。『説文解字』が涌(わく)で説明しているのは正当である。涌ヨウも↑の形に水が枠を突き抜けて上がることである。
涌くことで沖を説明したことから、意外な意味が生まれた。これが日本語の沖(おき)の用法である。沖は本来は「おき」の意味はない。しかし日本人は「おき」は波が荒く、突き上がり、涌き上がるような海域と考え、「おき」の漢字表記として沖が使われたのである。