「陳」

白川静『常用字解』
「会意。阜(阝)は神が天に陟り降りするときに使う神の梯の形。その前に東(上下を括った橐ふくろの形)を置く形で、お供えを陳列する(ならべつらねる)の意味となる」

[考察]
字形から意味を読み取るのが白川漢字学説の方法である。阜(神の梯)+東(ふくろ)→梯の前でお供えを陳列するという意味を導く。
ここで疑問。神が天を上り下りする梯とは何であろうか。こんな空想的なものの前に袋を置くとはどういうことか。袋の中に供物が入っているのであろうか。なぜ梯の前に置くのか。疑問だらけである。
だいたい陳に「神の梯の前で供物を陳列する」という意味があるのだろうか。こんな意味はあり得ない。これは字形の解釈に過ぎない。図形的解釈をストレートに意味とするのは白川漢字学説の特徴である。
字形に意味があるというのは言語学に反する。意味は言葉に内在する概念である。聴覚記号である言葉を視覚記号に換えたのが文字である。意味は「言葉の意味」であって「文字の意味」ではない。字形から意味を読み取る白川漢字学説は逆立ちした文字学である。
意味は言葉の使われる文脈でしか分からない。具体的文脈での使い方が意味である。陳は次のような古典の文脈で使われている。
 原文:左右陳行 戒我師旅
 訓読:左右行を陳(つら)ね 我が師旅を戒む
 翻訳:左右に隊列を並べ わが軍団を引き締める――『詩経』大雅・常武
陳は列をなして敷き並べる(連ねる)という意味で使われている。これを古典漢語ではdien(呉音でヂン、漢音でチン)という。これを代替する視覚記号しとして陳が考案された。
陳は「阜+東」というきわめて舌足らず(情報不足)な図形である。これから意味を導くと何とでも解釈できよう。しかし恣意的な解釈に陥る危険がある。字形→意味の方向ではなく、意味→字形の方向に見る必要がある。意味は上記の通りである。なぜそんな意味をもつdienの表記としたのか。
東は土囊の図形である。これの用途は主として土木工事である。一方、阜は土を段々に積み上げた形で、盛り土・丘・山など、土と関係がある。このように見ると陳という図形の意匠(組み立てのデザイン)も見えてくる。すなわち土木工事で盛り土をする際に土囊を敷き並べる情景という意匠である。「阜+東」はきわめて舌足らずだが、意味から逆に図形を眺めると、このような意匠が浮かぶ。
敷き並べる仕方は▯-▯-▯-▯の形に列を作って並ぶはずである。だから陳列という語も生まれる。これは空間的なイメージだが、空間的イメージは時間的イメージにも転用されることが多い。時間を空間化して▯-▯-▯-▯の形に進んで行くこと考えると、これは時間の経過であるから、長い時が経つというイメージが生まれる。これが陳腐・新陳代謝の陳(久しい、古い)の使い方である。白川は「そのまま陳列しておくので、陳腐のように、“ふるい、ひさしい”の意味となる」と説明しているが、陳列したものが古くなるというのは必然性に欠ける。意味論的な転義の説明になっていない。