常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2016年03月

「営」
正字(旧字体)は「營」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は𤇾。𤇾のもとの字は[𤇾+乂]で、篝火の形である。兵士たちの居住する兵舎や宮殿の前で篝火を燃やして警戒した。営の下部の呂は口(兵舎や宮殿などの建物の平面形)を二つ連ねた形で、営は軍隊や宮殿などの仕事にいそしみ努めることから、‘いとなむ’の意味となる」


[考察]
形から意味を導くのが白川漢字学説の特徴である。兵士たちの住む兵舎や宮殿の前で篝火を燃やして警戒する→軍隊や宮殿の仕事にいそしみ努める→いとなむと意味を導く。
意味は形から出てくるものだろうか。そもそも意味とは何か。意味は言葉の意味であって、ほかに有りようがない。「人生の意味」とか「絵画の意味」などと言っているのは比喩であって、比喩も言葉の意味が根源にあって初めて理解できる。漢字における意味というのは古典漢語という言葉の意味である。それは古典の文脈で使われた意味である。文脈がなければ意味の取りようがない。
白川漢字学説では図形的解釈と意味が混乱している。「軍隊や宮殿などの仕事にいそしみ努める」は図形的解釈であって意味ではない。篝火から軍隊を導くのは必然性がない。
營がどのように古典で使われているかを調べるのが先である。

①原文:營營青蠅 止于樊
 訓読:営営たる青蠅 樊に止まる
 翻訳:ぐるぐる回るあおばえは 生け垣の上に集まった――『詩経』小雅・青蠅
②原文:經始靈臺 經之營之
 訓読:霊台を経始す 之を経し之を営す
 翻訳:聖なるうてなを築こうと 設計し区画をつける――『詩経』大雅・霊台

①では「周りを回る(めぐる・めぐらす)」の意味、②は「区画をつける」の意味で使われている。注釈では「営は繞(めぐる)なり」「営は環(めぐらす)なり」の訓がある。周りをめぐるというのが基本の意味で、具体的文脈では2のように、根拠地を造営する際、土地に区画をつけて周りを柵などで囲む行為に営という語が使われている。これらを意味する古典漢語がɦiueŋであり、この聴覚記号を図形に表して營と書く。
營はどういう図形か。ここから字源の話になる。𤇾は榮・瑩・熒・螢・鶯などの語群に共通する記号で、これらに共通のコアイメージを提供する記号である。すなわち「周囲を丸く取り巻く」というコアイメージが一群の語の深層構造に存在する(56「栄」を見よ)。
𤇾を除いた呂は背骨という具体物を表す図形であるが、背骨という実体に焦点があるのではなく、その形態にポイントがある。背骨は〇-〇-〇-のように連なっている。だからこのようなイメージを示す記号になる。「𤇾(音・イメージ記号)+呂(イメージ補助記号)」を合わせたのが營である。これは土塁や柵などを▯-▯-▯-の形に並べ連ねて周囲を丸く取り巻く情景を暗示させる図形である。この図形的意匠(デザイン、図案)によって、「周りをめぐる・めぐらす」、また「土地に区画をつけて柵でめぐらす」という意味をもつ古典漢語ɦiueŋの視覚記号とする。
『詩経』で土地の区画をつけるという意味で使われてから、仕事や事業を計画して行う(いとなむ)という意味を派生した。「いとなむ」は最初の意味ではなく転義である。 

「栄」
正字(旧字体)は「榮」である。

白川静『常用字解』
「形声。 音符は𤇾𤇾のもとの字形は[𤇾+乂]で、夜中の警備などのときに燃やす篝火の形である。その篝火の明るく燃えさかる様子を栄といい、‘はなやぐ、はえる、さかえる’の意味となる」


[考察]
形から意味を導くのが白川漢字学説の特徴である。篝火が明るく燃えさかる→はなやぐ・はえる・さかえるの意味が出たという。
問題が二つある。榮は木と関係があるはずだが、木について触れていない。なぜ木偏の字が「はなやぐ」の意味になるのか。もう一つは𤇾の意味と関わっているからには、会意文字となるはずである。Aの意味とBの意味を合わせてCの意味を解釈するのが白川漢字学説の方法である。これは会意の手法である。白川漢字学説には会意の手法はあるが、形声の説明原理がない。

最も大きな問題は形に意味があるかということである。意味とは何か。白川漢字学説では意味は形にあるとして、形の解釈を意味とする。しかしこれは根本的な誤りである。意味は言葉の意味である。言語学では、言葉(記号素)は音声要素(聴覚映像)と意味要素(概念・イメージ)の結合体というのが定義である。定義上、意味は言葉に属する。形は言葉を表記する図形(視覚的な記号)であって、直接意味を表すわけではない。「犬」は古典漢語k'uənを喚起する視覚記号であり、聴覚記号のk'uənに「いぬ」の意味がある。文字の「犬」の形が直接「いぬ」を表すのではない。漢字は表意文字だから形が意味を表すというのは錯覚である。表意文字とは表音文字と組みになる用語で、記号素の音声部分のレベルで視覚記号に変換するのが表音文字(音素文字)で、これに対して意味部分のレベルで視覚記号に変換するのが表意文字(記号素文字)である。後者の形(図形)は記号素と対応し、記号素の意味のイメージを近似的に暗示させるだけで、十全に、完璧に、意味を表すわけではない。「犬」はたまたま一対一に対応するので、「犬」と「いぬ」が結びつくが、図形と言葉の意味がぴったり対応しない場合の方がむしろ多い。
榮を「篝火が明るく燃えさかる」と解釈しても「はなやぐ」とはぴったり対応しない。図形から意味を求めることはできない。では意味はどこにあるのか。古典の文脈にある。文脈における語の使い方が意味である。榮は古典では次のような用例がある。

①原文:凡道無根無莖無葉無榮。
 訓読:凡そ道は根無く、茎無く、葉無く、栄無し。
 翻訳:いったい道[宇宙の根源]というものは根も茎も葉も花もないものだ――『管子』水地
②原文:其生也榮。
 訓読:其の生くるや栄ゆ。
 翻訳:彼が生きている間は繁栄する――『論語』子張

①は「はな」の意味、②は「さかえる」の意味で使われている。これらの意味をもつ古典漢語がɦiuĕŋであり、これを榮と表記する。なぜこのような図形が生まれたか。ここから字源の話になるが、字源の前提には語源がある。
𤇾という記号は榮のほかに營・螢・瑩・熒・鶯などに含まれ、一つの同系語群を形成する。𤇾は火を二つ並べた形に冖(∩の形に取り巻く符号)を添えて、光源が丸く取り巻いたともしびを設定した図形である。𤇾は独立した字にはなっていないが(独立字としては熒がある)、上記の語群の音・イメージ記号として用いられている。この記号は「丸く周囲を取り巻く」というコアイメージを示すために考案されたと考えてよい。歴史的には「丸く周囲を取り巻く」というコアイメージをもつ語があり、これを中心にして同源語が次々に派生していく過程で、このコアイメージを表すためにaの記号が造形されたと考えられる。

これらの語群に属する語で樹木の意味領域に関係のあるものが榮である。これは何か。1にあるように「はな」の意味である。「はな」を表す古典漢語には花・華・英・葩などがあるが、榮はこれらとは違う「はな」である。何が違うか。花には一輪咲きの花もあれば、集合した花もある。サクラは小さな花が樹木に群がり、全体を覆った形に見える。このような樹木に覆いかぶさるような形態をした花がɦiuĕŋと呼ばれる花である。この語の根底に「丸く周囲を取り巻く」というコアイメージがあるので、aの仲間と同源という意識が働き、「𤇾(音・イメージ記号)+木(限定符号)」を合わせた榮が考案され、木の全体を取り巻く特徴をもった「はな」を暗示させるのである。ちなみに英語のblossomは果樹の花、特に木の全体を取り巻く花で、栄える意味にも展開するという。榮にも2の用法があり、英語のblossomと意味も転義も同じである。 

「映」

白川静『常用字解』
「形声。音符は央。央には美しく、盛んなものという意味があって、花の美しいことを英といい、日に照りはえて、照りかえす光に明るくうつし出されることを映という。‘うつる、うつす、はえる’ の意味に用いる」

[考察]
54「英」の項でも指摘したが、央は殃のもとの字で、死罪のような禍をいう(同書、央の項)のであるから、「美しく盛んなもの」という意味とは無縁である。央から「うつる」の意味は出てこない。
形→意味の方向に漢字を説くと無理が生じる。というよりもこの字源説は非科学的 である。なぜなら意味は形にあるのではなく、言葉にあるからである。言葉→意味→形の方向に説くのが、正しい字源説である。

では映はどんな言葉を表記し、その言葉はどんな意味をもつのか。意味は古典における文脈上の使い方である。文脈がなければ意味はない。
映は先秦時代の古典には見えない。『説文解字』にもない。後漢の頃の文献にやっと出現する。
 原文:冠咢咢其映蓋兮
 訓読:冠は咢咢として其れ蓋に映ず
 翻訳:冠は高々と上がって車蓋と照らし合ってはっきり見える――張衡・思玄賦

映は光を受けて物の姿がくっきりと現れるという意味で使われている。この意味の語は英と同音の・iăŋであり、表記も限定符号を取り換えた映である。なぜこんな語が生まれ、似た表記が生まれたのか。それは二つが同源であると意識されたからである。そしてこれらの語の根底には「くっきりと分かれて目立つ」というコアイメージが共通にあると認識されたからである。このコアイメージを表す記号が央である。
央は真ん中の意味であるが、根底には「中心で上と下にはっきり分かれる」というイメージがある。このイメージは「くっきりと分かれて目立つ」というイメージに展開する(89「央」を見よ)。
かくて明と暗がくっきりと分かれて際立つ情景を「央(音・イメージ記号)+日(限定符号)」を合わせた映によって表現できる。映という図形的意匠は「光を受けて物の姿がくっきり現れる」という意味を暗示させ、・iăŋの表記としての役割を果たすことができる。 

「英」

白川静『常用字解』
「形声。音符は央。央には美しく、盛んなものという意味があって、美しい‘はな’ 、また花の美しいことを英という。その意味を人に移して、才能のすぐれた人を英といい、‘すぐれる’の意味に用いる」

[考察]
同書の「央」の項では、「首に枷を加えられている人を正面から見た形。央は殃(刑罰の災い)のもとの字であると考えられる。死罪のような禍をいう」とあり、「美しく盛んなもの」という意味とは懸け離れている。
白川漢字学説には形声文字の説明原理がなく、すべて会意的に説くのが特徴である。英を会意的に説こうとすると央に「美しく盛んなのもの」という意味を設ける無理が生じる。

古典で英がどのように使われているかを見てみよう。
 原文:彼其之子 美如英
 訓読:彼(か)の其の子 美なること英の如し
 翻訳:かのいとしい人は 花のような美しさ――『詩経』魏風・汾沮洳

植物のはなの意味で使われている。「はな」を意味する語にはほかに花・華・栄・葩もあるが、それぞれ由来(語源)が違う。「はな」に対するイメージの違いから違った語が生まれている。英はどんな発想から造語されたか。英と呼ばれる「はな」のイメージは央のコアイメージと関わりがある。
央は「真ん中」の意味である。ある線分(あるいはある範囲の空間)を想定した場合、 上と下(あるいは左と右)を分けた中間の部分である。例えば―・―という図の「・」の部分である。これは―|―の形と見てもよい。この図から浮かぶイメージは「くっきりと切れ目がついている」「はっきりと分かれている」というイメージである。このように「真ん中」という空間的イメージは「はっきりと区切りがついている」「けじめがついてはっきりしている」というイメージとつながる。またこのイメージは「くっきりと目立つ」というイメージにもつながる(89「央」を見よ)。
こういうイメージの転化現象を踏まえて、植物の「はな」に対するイメージも生まれた。「はな」は植物の中央というわけではないが、他の部分(根、幹、茎、葉など)の中では格段に目立つ部分である。「くっきりと分かれて目立つ」というコアイメージを読み取って、「はな」を・iăŋと名づけ、「央(音・イメージ記号)+艸(限定符号)」を合わせた英によって表記したのである。

「泳」

白川静『常用字解』
「形声。音符は永。永は水が合流して速く流れるところで、水の流れの長いことをいう。その水流に乗るようにして水を渡ることを泳といい、‘およぐ’ の意味となる」

[考察]
形から意味を解釈し、図形的解釈そのものを意味とするのが白川漢字学説の方法である。Aという文字とBという文字を合わせて、Aの意味とBの意味を兼ね合わせたものをCの意味とする。これは会意の手法である。白川漢字学説はすべての漢字を会意的に説くのが特徴である。だから形声の説明原理はない。本項も形声ではなく会意と規定するのが白川漢字学説であるはず。
永は水が合流して速く流れる場所で、速い水流に乗るようにして川を渡るのが泳で、そこから「およぐ」の意味が出たという。二つの疑問がある。永は水の流れの速い所と言いながら、水の流れの長い意味だという。これが解せない。「速い」から「長い」への転義は考えにくい。また速い水流に乗って水を渡ることが「およぐ」ことになるだろうか。浅い所は徒歩でも渡れるし、深い所はいかだや舟で渡れる。必ずしも「およぐ」とは結びつかない。
形から意味を引き出そうとするから、こんな無理な解釈に陥ってしまう。

意味はどこにあるのか。形に意味があるとするからおかしなことになる。意味が言葉にあることは言語学の常識であり、これを外すと科学的ではなくなる。発想を変えて、意味から形を見るべきである。意味とは具体的文脈に現れる言葉の使い方である。言葉は聴覚的な記号で、これを視覚的な記号に換えるとき、文字が出現する。文字は言葉を表記する手段であって、文字が言葉から独立して存在するわけではない。

さて泳はどんな文脈で使われているか。これを調べれば意味が分かる。
 原文:漢之廣矣 不可泳思
 訓読:漢の広き 泳ぐべからず(矣・思はリズム調節詞で、訓読しない)
 翻訳:漢水は広いよ 泳いで渡れぬ――『詩経』周南・漢広

泳は「およぐ」の意味である。古典漢語では「およぐ」に二語があり、水上を浮かんでおよぐことを游といい、水中を潜っておよぐことをɦiuăŋ(泳)といったとされる。この区別は『詩経』の解釈学者の立てた説だが、区別は厳密ではなく、泳は両方を兼ねることが多い。
「およぐ」を意味する語の視覚的表記が泳である。「永(音・イメージ記号)+水(限定符号)」と解析する。なぜ永が用いられたのか。それは同源意識によるものであり、 ɦiuăŋという語の分化・派生であると考えてよい。つまり「およぐ」という行為に「いつまでも長く続く」というイメージを見るからである。水上や水中を手足の運動によって移動する行為が、水に溺れることなく、いつまでも長く浮かんで(潜って)いられるという視座で捉えられ、「いつまでも長く続く」の意味の永との同源意識から、「およぐ」行為を永と同音でɦiuăŋと呼び、視覚記号化して泳が考案されたのである。 

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