常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2016年04月

「何」

白川静『常用字解』
「形声。音符は可。可は神に願いごとが実現するように要求し、その承認を求める行為であるから、音と意味が何と関係がある。“なに、なんぞ、いずく、いずれ” の意味に用いる」

[考察]
可の条では「神が許可する」の意味としながら、本項では可は「(願いごとを実現するように神に)承認を求める」の意味としている。神→人から神←人の方向に逆転している。また、可の意味が何(「なに、いずく」という疑問を示す字) と関係があるというが、「(神に)承認を求める」と「なに、いずく」の意味に何の関係があるのか分からない。
形から意味を求めるのが白川漢字学説の方法であるが、言葉という視座がないから、形声文字の説明原理がない。そのため会意的に説く。その結果、形の解釈をストレートに意味とする。これは大きな誤りである。

言葉から出発する視座に切り換える必要がある。それには古典での用例を調べるのが先である。次の用例がある。
①原文:彼候人兮 何戈與祋
 訓読:彼の候人 戈と祋タイとを何(にな)ふ
 翻訳:あの接待係のお役人 ほこと警棒をかついでる――『詩経』曹風・候人
②原文:吉夢維何 維熊維羆
 訓読:吉夢は維(こ)れ何ぞ 維れ熊維れ羆
 翻訳:めでたい夢は何の夢 クマの夢にヒグマの夢――『詩経』小雅・斯干

①は「になう、かつぐ」の意味、②は「なに」という疑問詞に使われている。この二つの意味に何の関係があるのか。これをつなぐのが語の深層構造をなすもの、すなわちコアイメージである。これこそ形声文字の説明原理でもある。
「になう」と「なに」を意味する言葉(古典漢語)はɦarである。この聴覚記号を視覚記号に切り換えたのが何カである。なぜ可を用いて図形化が行われたのか。それは可と何の同源意識である。同源意識というのは同じ語根から派生したという認識であり、派生した語の根底に同じイメージがあるという感覚である。何は「可(音・イメージ記号)+人(限定符号)」と解析できる。可はその条で説明した通り「つかえて曲がる、ᒣ形に曲がる」というコアイメージがある(111「可」を見よ)。したがって肩に荷物をかつぐ姿を「ᒣ形に曲がる」のイメージで捉え、何の図形が考案されたのである。
一方、疑問詞は図形化しにくい。特定の場面に着目して図形化を図る。それは不審なものに対して「誰だ」「なんだ」と詰問する(これを「誰何」という)場面である。これはどなる感じである。しかる、どなるという意味の言葉を呵という。これに可が使われている。どなる行為は息を喉で屈曲させて摩擦させるような音声の出し方で、この状況を「つかえて曲がる、ᒣ形に曲がる」というイメージをもつ「可」で捉えた。かくて「になう」と共通のイメージがあるため、「なに」という疑問詞も何で表せるのである。
「になう」と「なに」は深層では関わりがあるが、表層では使い方が離れ過ぎている。そのため二つを分離させる必要が生じ、「になう」は荷に表記を譲ることになった。

「仮」
正字(旧字体)は「假」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は叚。叚は玉質の石の塊を切り出して、これをみがいて美しい玉にしあげる形。それで人面をしあげることを假という。すなわち仮面の意味である」

[考察]
形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。 言葉という視点がないから、形声を説明する原理をもたない。だからすべての漢字を会意的に説く。本項も形声ではなく、会意と規定すべきである。
叚(石を磨いて美しい玉に仕上げる)+人→假(美しい玉で人面[仮面]を仕上げる) と意味を導く。
字形の解剖にも納得し難い所がある。叚に「玉質の石」を見るのが突飛である。 それを磨いてできた玉で仮面にするという解釈も奇妙である。そんな仮面が存在するだろうか。鉄仮面や能面などを念頭に置くのであろうか。

意味とは言葉の意味である。文字は言葉を表記する手段であるから、言葉を離れては単なる符号である。そんな形から意味を求めても言葉の意味にはならない。「意味とは言葉の意味である」を前提 にしないと漢字論は成り立たない。
意味→形という軸から見直してみよう。まずkăgという言葉(古典漢語)があった。kăgは家も意味するが、これとは別の意味もあり、假と表記される。次のような文脈で使用される。
 原文:心之憂矣 不遑假寐
 訓読:心の憂ひ 仮寐するに遑あらず
 翻訳:心に結ぶ物思い うたた寝のゆとりすらない――『詩経』小雅・小弁

假寐とは一時的に寝る、つまり本式の睡眠ではなく間に合わせの睡眠ということである。「一時的な間に合わせで本当ではない」というのが假の意味である。仮説の仮はこの意味。仮病の仮は「本当のように見せかける、うわべだけで実体がない」という意味。これらに共通するのは「実体を覆い隠して見せない」というイメージである。これが假という言葉のコアイメージである。もっと抽象化すると「覆いかぶさる」というイメージになる。仮面の仮にはこのイメージがもろに現れている。これは家という語のコアイメージと全く同じである。仮と家が同音である理由は深層構造が共通するからである。つまり「覆いかぶさる」というコアイメージが具体的文脈では「いえ」と「かり」の意味を実現させるのである。仮・家だけではなく、下・夏・胡・庫などにも拡大させ、大きな単語家族として統括したのは藤堂明保である。
さて「一時的な間に合わせで本当ではない」という意味のkăgを表記するのが「假」である。これはどんな意匠が工夫されているのか。ここから字源の話になる。「叚(音・イメージ記号)+人(限定符号)」と解析する。叚は楷書では形が崩れているが、金文に遡ると、「厂(垂れたもの)+〓(ある物)+爪(下向きの手)+又(上向きの手)」と分析できる。布やベールのようなものを両手で物に覆いかぶせる情景を設定した図形である。これによって「覆いかぶせる」「上からカバーして実体を覆い隠す」というイメージを表すことができる。かくて假は実体を隠してうわべを取りつくろうことを暗示させる。これがkăgという語を表記するための図形的意匠である。

「可」

白川静『常用字解』
「口はㅂで、祝詞を入れる器の形。そのㅂを木の枝(㇆)で殴(う)ち、祈り願うことが実現するように神にせまる。願いごとを実現す“べし” と神に命令するように強く訴え、それに対して神が“よし”と許可する(ゆるす)のである」

[考察]
疑問点①祝詞は口で唱えるものだが、なぜ文(書いたもの)にするのか。なぜ器に入れるのか。そんな器が実在するのか。②その器を木の枝で打つとはどういうことか。そんな行為がありうるのか。③可に「願い事を実現すべしと神に訴え、それに対し神が許可する」というような意味があるのか。
「㇆(木の枝)+口(器)」というわずかな情報から壮大な物語が作られた、そんな印象の字源説である。
字形から意味を引き出すのが白川漢字学説の方法である。図形的解釈をストレートに意味に置き換えるため、形の解釈と意味が混同され、意味にゆがみを生じたり、余計な意味素を混入させたり、あり得ない意味を創作したりする。
いったい意味とは何か。意味とは言葉の意味である。言葉は音声的要素と意味的要素の二要素から成る。その意味的要素がいわゆる「漢字の義」である。義というのは漢字の意味ではなく、本当は古典漢語の意味なのである。これをはっきりさせないと永久に漢字が分からなくなる。漢字の形に意味があると錯覚し、形から意味を捉えようとする。これが俗説を生む原因である。

漢字を理解するにはまず言葉から、その意味から出発すべきである。可は古典でどんな使い方をしているかを見る。
①原文:仲弓問子桑伯子、子曰、可也、簡。
 訓読:仲弓、子桑伯子を問ふ。子曰く、可なり、簡なればなり。
 翻訳:仲弓[孔子の弟子]が子桑伯子のことを質問した。先生は“まあまあ結構だ、おうようだから” と答えた――『論語』雍也
②原文:它山之石  可以攻玉
 訓読:它山の石 以て玉を攻むべし
 翻訳:ほかの山のつまらぬ石でも 玉を磨くことができる――『詩経』小雅・鶴鳴

①は 「まあまあよいと認める」「まずまず結構である」という意味、②は「何かをしてよろしい、さしつかえない」「~できる」という意味で使われている。①は限定的な許可の出し方である。不満はあるがよかろうという許可である。ここから②の意味、何かをしてよいという条件の下で「~できる」という意味が生まれる。文献的には②が古いが、②は韻文なので、①の会話の文脈での使用法が先にあったと考えてよい。

①の「まあまあよいと認める」という意味をもつ古典漢語がk'ar(推定)である。この聴覚記号を視覚記号に換えて「可」とした。この図形はどんな意匠をもつのか。ここから字源の話になる。

可は「丂(イメージ記号)+口(限定符号)」と解析する。「丂」は伸び出ようとするものが上でつかえて曲がる様子を示す象徴的符号である(宇の条を見よ)。「つかえて曲がる」「
形に曲がる」というイメージを表すことができる。口から声を出す際、声がかすれることがある。まっすぐ行かないで、摩擦や障害にぶつかり、つかえつつ進む。喉をかすらせて声を出す場合はこんなイメージである。可も「つかえて曲がる」「ᒣ形に曲がる」というコアイメージをもつと言える。可が呵(しかる)や歌(節をつけてうたう)、誰何の何(誰だ何だと不審者をどなる)の音・イメージ記号になるのは、可がこのようなコアイメージをもつからである。

可の単独用法は、どなって「よし」「よろしい」とたたきつける言葉である。それは相手のいうことをすなおに聞き入れるのではなく、不満はあるが「まあまあよい」としぶしぶ認める口調である。ここから「まあまあ結構だと認める」「(不満はあるが)何かをしてよい」と許可を与える用法に転じる。

「加」

白川静『常用字解』
「会意。力(耒の形)にᄇ(祝詞を入れる器)をそえている形で、すきを祓い清める儀礼をいう。すきやくわなどの農具は、神に祈り、よく祓い清めてから使用しないと、秋に虫が発生して作物を食べると考えられた。それで農具にお祓いを“くわえる” 儀礼をし、収穫量の増加することを祈ったのである。“くわえる、ます”の意味に用いる」

[考察]
いろいろな疑問点がある。①力(すき)に口(器)を添えた形から、鋤を祓い清める意味になるのか。なぜ鋤を祓浄するのか。鋤は不浄なものか。②祝詞は口で唱える行為なのになぜ器に入れる必要があるのか。③農具を祓い清めないことと、作物が虫に食われることの間に、必然的な関係があるのか。④農具に祓いを加える儀礼から「加える」の意味が出たというのは奇妙。むしろ収穫量が増加するから「加える」の意味になったというべきではないか。
農具を祓い清める→作物が虫に食われない→収穫量が増えるという意味転化の説明は甚だ迂遠である。いったいこれは言葉の意味の説明だろうか。形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。言葉という視点がないから、図形の解釈がそのまま意味となる。つまり図形的解釈と意味が混同される。これが白川漢字学説の特徴である。

形→意味ではなく、意味→形の方向に見る必要がある。「加」はどんな意味で使われているのか、具体的文脈を探るのが先決である。最古の用例は次の通り。
 原文:弋言加之 與子宜之
 訓読:弋ヨクして言(ここ)に之を加へ 子シと之を宜(うま)しとせん
 翻訳:鳥を射止めたらお膳に供へ お前と一緒に味わおう――『詩経』鄭風・女曰鶏鳴

この文脈では「上に乗せる」という意味で使われている。これはkăr(推定)という語のコアイメージがそのまま文脈上に現れたもの。普通は、ある物(A)の上に別の物(B)をくわえる(プラスする、増し加える)という意味、また、Aが力を他(B)に重ねて及ぼす(相手を圧迫する、凌ぐ)という意味で使われる。「Aの上にBを乗せる」というコアイメージからこれらの意味が展開する。このイメージを具体的な場面を設定することによって図形化したのが「加」である。これは「力+口」と分析できる。力も口も文字通りである(鋤でも器でもない)。非常に舌足らず(情報不足)な図形だが、力(腕の力)の上に口(言葉)をプラスして、相手に圧力をかける状況を暗示させるようとした。この意匠を作ることによって、「Aの上にBを乗せる」というイメージを表現するのである。

「火」

白川静『常用字解』
「象形。燃えあがっている火の形。“ひ” をいう。火カという音は、はげしく焼けるときの音であるらしい」

[考察]
形から意味が出るというのが白川漢字学説の特徴である。燃え上がっている字形から「ひ」の意味を導く。白川漢字学説では言葉という視座はないが、本項では珍しく「カ」という音が擬音語だという。しかしm(h)uər(藤堂による再構)という語が物の焼ける音に由来するとは信じられない。

語源的には「火は化なり」という説と、「火は燬キなり」という説が古くからあった。王力(現代中国の言語学者)は火・毀(こわす)・燬(焼き尽くす)が同源という(『同源字典』)。藤堂明保は毀・燬のほかに微・尾・勿・没・民などとも同源として、「小さい、よく見えない、微妙な」という基本義があるという(『漢字語源辞典』)。
huərという古典漢語は火の機能や特徴から発想された語と考えられる。火は物を焼いて跡形もなくする。物を消滅させる。だからその語には「(物を焼いて)見えなくさせる」というコアイメージがある。 

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