常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2016年05月

「我」

白川静『常用字解』
「仮借。我は鋸の形。もと刃にぎざぎざのある鋸を意味する字であったが、一人称の代名詞“われ” として使うようになった。それで我に代えて、のこぎりを意味する字として形声の字である鋸キョが作られた。(・・・)代名詞はそれを示す適確な方法がなく、すべてその音を借りる仮借の用法である」

[考察]
仮借とあるが、仮借は文字の構成ではなく応用を説明する用語であって、ふさわしくない。「我」は象形とすべきである。「我」を鋸の意味とするが、そんな意味の用法はない。甲骨文字ですでに「我」は一人称の「われ」の意味で使われている。我=一人称(われ)であって、仮借としては、何から何を借りたのかさっぱり分からない。「我」をngarと読むのは一人称の言葉の読みであって、鋸の読みではない。だいたい鋸(kiag)と我(ngar)の音は懸け離れている。
仮借説は成り立たない。
ではなぜ一人称を「我」で表すのか。正確に言えば、「われ」を意味する古典漢語ngarをなぜ「我」という視覚記号で表記するのか。 「我」がぎざぎざの刃のついた刃物(武器)を描いた図形であることは間違いない。しかし実体に囚われると語を捉え損ねる。漢字の見方は実体ではなく、形態や機能を重視すべきである。これこそ漢字の造形法の原理にかなう。つまり言葉の意味のイメージ(コアイメージ)を図形化するのが漢字の造形原理なのである。
「我」からどういうイメージが読み取れるか。 形態に注目する。ぎざぎざは∧∧∧∧の形である。∧と∧を組み合わせると᙭の形である。つまりぎざぎざの形は視点を変えれば᙭の形に転化する。一人称の成立には᙭のイメージが大切である。一人称は「吾」や「卬」もある。「五」は漢数字の五で、一と十の中間点に位置し、←の方向に数え、折り返して→の方向に数える、その中間点が五である。だからngagという語のコアイメージは⇄(交差)のイメージがある。交差は᙭でも表せる。卬(ngang)も同じである。なぜ᙭のイメージかというと、一人称は対話の場面から発想され、A⇄Bという話し手と聞き手の関係において、話し手の側がまさに一人称、聞き手の側が二人称になるからである。かくて一人称は᙭や⇄のイメージをもつnga~と名づけられた。なお二人称は「近い」「くっつく」というイメージのnier(爾)と名づけられた。
かくて一人称をなぜngarといい、「我」という図形的表現を得たかが明らかとなった。我・吾・卬はともに同じ発想で生まれた一人称なのである。

「課」

白川静『常用字解』
「形声。音符は果。果は果物をいう。果の音の字には、夥(おおい)・窠(巣穴)・顆(粒)など、ある部分に物が密集し、しかも区分があるという状態を示す字が多い。果物にはみかんのようにそのような形をもつものが多いからである。それで課とは一つひとつの項目に分かれているものの意味、その一つひとつの部分を責任をもって引き受けるの意味となり、またその部分に責任をもたせるの意味となる」

[考察]
果物の形から課の意味を導く。果物特にみかんは「ある部分に物が密集し、しかも区分があるという状態」だという。みかんの袋を念頭に置くのであろう。みかんは袋に分かれており、それは密集し、区分がある。みかんの状態から、課の意味は「一つひとつの項目に分かれているものの意味」とする。ここまでは分からないでもないが、その意味から「一つひとつの部分に責任をもって引き受ける」という意味になるのに必然性があるだろうか。これが疑問である。振り返って見ると、果物はたくさんの種類がある。なぜ「みかん」に限定できるのか。林檎や梨や柿などは「ある部分が密集し、しかも区分がある状態」とはとうてい言えないだろう。要するに果物をみかんに限定し、課の意味を導くのは特殊化であり、一般的とは言えない。つまり意味の展開に必然性がない。

課は果から派生した語であることは間違いないだろう。果は「くだもの」の意味であるが、果実は種子から変化発展したものなので、「ある原因から生み出される最終的なできばえ」という意味が生まれる(成果、結果の果)。ここから更に展開して、できばえ(成果)が期待できるかどうかを試すという意味が生まれる。これを果(kuar)と似た音でk'uarといい、「果(音・イメージ記号)+言(限定符号)」を合わせた「課」で表記するのである。
戦国時代の『楚辞』天問という詩篇に、「何ぞ課せずして之を行(や)る」([帝は]なぜ成果が上がるかを試さないで彼[鯀]を[治水に]行かせたのか)という用例がある。
このように成果が期待できるかどうかを試験するというのが最初の意味である。ここから、成果を期待して人に割り当てるという意味(課題の課)、割り当てた仕事や負担という意味(日課の課)などに展開する。 

「稼」

白川静『常用字解』
「形声。音符は家。もとは稲などを植え、より多くの収穫をえようと農業にはげむことをいう字であったが、国語では“かせぐ”とよんで、利益を求めて、農業に限らず仕事にはげみ、努力することをいうようになった」

[考察]
白川漢字学説では形声の説明原理がない。すべての漢字を会意的に説くのが特徴であるが、家からの説明ができないので、字源を放棄している。
漢字の説明は形からではなく言葉から出発しなければいけない。文脈から意味を求めるのが先である。古典では次のような用例がある。
 原文:不稼不穡 胡取禾三百廛兮
 訓読:稼せず穡ショクせずんば 胡(なん)ぞ禾(いね)三百廛テンを取らんや
 翻訳:植えつけて取り入れしなけりゃ 三百軒分の稲は取れるまい――『詩経』魏風・伐檀

作物を植えつける意味で使われている。このことを古典漢語ではkăgという。この語は家と同音である。家との同源意識から生まれた語である。家は「上からかぶせる」というコアイメージがある(122「家」を見よ)。したがって「家(音・イメージ記号)+禾(限定符号)」を合わせた稼は、種子に土をかぶせる情景を暗示させる。この意匠によって、「作物を植えつける」の意味をもつkăgを表記する視覚記号とする。
作物を植えつける意味から作物を取り入れる(収穫する、収穫したもの)の意味に転じる。原因から結果に視点が移動して転義が起こった。取り入れる・取り込む意味があるので、金やもうけを取り込む、つまり「かせぐ」の意味が生じた。ただしこの意味は日本的展開である。 

「箇」

白川静『常用字解』
「形声。音符は固。箇は説文に“竹の枚なり” とあり、もとは竹べらのようなものの名であるが、それを並べて数を数えたので、その数を示す単位となり、一箇(物一つ)・二箇のようにいう」

[考察]
『説文解字』を読み違えている。「箇は竹の枚なり」というのは、木を数えるのは枚だが、竹を数えるのは箇だということを述べている。箇は助数詞の使い方しかない。
「音符は固」とあるだけで、箇の意味との関わりを説明していない。形声の説明原理がないのが白川漢字学説の特徴である。言葉という視点が全く抜け落ちている。言葉と関わるのは音符のはずだが、白川漢字学説では音符の定義がない。音の定義すらない。音は漢字の読み方としか考えていないようである。
音は漢字の読み方ではなく、漢語の読み方、漢語の一つの記号素の聴覚心像、すなわち音声要素が音である。音符というのは発音記号ではない。発音記号とは音素の読み方を示す記号であって、漢字は音素のレベルとは関係がないから、音符(発音符号)という用語はふさわしくない。漢字は記号素文字なので、読み(音)は記号素の読みである。俗に「音符」と言っているのは、記号素全体の読みを暗示させるのである。しかも読みを暗示させるだけでなく、語のコアイメージも暗示させる機能がある。そこで筆者は音符ではなく、「音・イメージ記号」と呼ぶ。

さて箇は形あるものを数える言葉(助数詞の一つ)で、古典漢語ではkagという。この聴覚記号を代替する視覚記号が箇である。すでに『荀子』などの古典に用例がある。箇は「固(音・イメージ記号)+竹(限定符号)」と解析する。「固」は「固い」がコアイメージである。字形から意味を導くと固い竹の意味になってしまうが、そうはならない。漢字は意味→形の方向は成り立つが、形→意味の方向は成り立たない。助数詞の一つを形に表したのが箇であって、固い竹を意味しない。ではなぜ「固い」か、なぜ「竹」か。竹は固いものであって、固いものは数えることができる。棒や塊という固い物を竹で代表させたに過ぎない。竹は比喩的限定符号である。 

「歌」

白川静『常用字解』
「形声。音符は哥。哥は可を重ねた形で、可は㇆(木の枝の形で、杖)で ㅂ(祝詞を入れる器)を殴(う)ち、その祈り願うことが実現することを神にせまるの意味で、“可(べ)し”という命令と“可(よ)し”という許可の二つの意味をもっている。欠は立っている人が口を開いて叫んでいる形で、神にせまるとき、その神に祈る声にはリズムをつけて、歌うように祈ったのであろう。その声の調子を歌といい、“うたう、うた”の意味に用いる」

[考察]
形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。言葉という視座がないのも白川漢字学説の特徴である。その結果、形声の説明原理がないので、会意的に説明する。会意とはA+B=Cという具合に意味を取る方法である。可(杖で器を打って、願い事の実現を神に祈る)を重ねた哥+欠(口を開いて叫ぶ)=歌(神に迫る時リズムをつける、その声の調子)と意味を求める。
形から意味を導くこと自体がおかしいが、ほかにこんな疑問点がある。①杖で祝詞の器を打つ行為とは何のことか。こんな行為が現実にありうるのか。②祝詞は口で唱える言葉なのになぜわざわざ文に書いて器に入れるのか。こんな物が存在するのか。 ③杖で器を打つ行為がなぜ願い事を神に迫る意味になるのか。神に迫ることから「べし」という命令の意味が出たというが、人が神に命令することがありうるのか。人が強いなら神頼みすることはあるまい。④神に迫る時リズムをつけて歌うように祈るというが、なぜリズムをつけて神に迫るのか。
なお白川は上の文章に続いて「国語の“うた” も“拍つ、訴う”と関係があるように思われる」というが、『古典基礎語辞典』(大野晋編)には「ウツ(打つ)からウタが起こったという語源説がある。しかし名義抄によるアクセントから考えると、ウタは上平、ウツは平上で合わないため、ウツとウタとの語源的な関連性は認められない」とある。「うったえる(うったふ)」もウルタへの転で、ウタやウツとは関係がないようである(『岩波古語辞典』)。

意味とは言葉の意味であって、字形にあるわけではない。形から意味を導く文字学は逆立ちしている。漢字の説明は形→意味の方向ではなく、意味→形の方向にしなければいけない。では意味はどうして分かるのか。それは古典において使用される文脈にある。前後の文脈から意味が捉えられる。歌は「うたう」を意味する古典漢語karの視覚記号で、次のような用例がある。
 原文:心之憂矣 我歌且謠
 訓読:心の憂ひ 我は歌ひ且つ謡はん
 翻訳:心の中の物思い 歌でも歌って気を晴らそう――『詩経』魏風・園有桃

歌も謡も「うたう」の意味で使われている。注釈によると、徒歌(楽器の伴奏なして歌う)が謡、楽器に合わせて歌うことが歌と区別される。
どんな発想から「うた」が生まれたのか。「うた」の起源は難しい問題だが、「うた」を意味する言葉の起源(語源)は想像するに難くない。可という記号を含む語群(可・何・荷・呵など)との同源意識から発生したと言える。これらの語群には「ᒣ形をなす」というイメージがある(111「可」を見よ)。ᒣは直線が曲がる形なので、∠形、∧形、◡形などのイメージにも転化する。要するにまっすぐ進まないで何かにつかえて曲がるというイメージである。口から音声や言葉を発する場合、声の調子をいろいろに変えることができる。どなり声や節回しもそれである。音声をスムーズに出すのではなく、喉を通るときの音声を摩擦させたりして調音する。ここに「こすれて曲がる」「つかえて曲がる」というイメージがある。このイメージをもつ「可」を利用し、これを二つ重ねた「哥」という図形が考案され、喉元で音を摩擦させて節回しを作り出す状況を暗示させる。この図形で「うたう」を表すには十分であるが、後に「哥(音・イメージ記号)+欠(限定符号)」を合わせた歌が生まれた。また「欠」を「言」に替えて謌とも書かれる。
「どなる(しかる)」 には呵や訶という字が考案された。不審者をどなって尋ねる場合には誰何の何が使われる。呵・訶・何と歌は発生の基盤が共通である。発音・発声を生理学的に捉える(想像する)ことから発想されて形成された語と言える。 

↑このページのトップヘ