常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2016年06月

「塊」

白川静『常用字解』
「形声。音符は鬼。鬼は大きな頭をもつもので、大きなものという意味がある。土くれの大きなものを塊といい、“土くれ、かたまり” の意味に用いる」

[考察]
形から意味を引き出すのが白川漢字学説の特徴である。鬼は亡霊(死者の魂)という意味で、その転義として、得体の知れない化け物、人知を超えて計り知れないものという意味があるが、「大きい」という意味はない(『漢語大字典』「漢語大詞典』にもない)。塊は「土くれの大きなもの」という意味ではなく、ただ「土くれ」である。
塊は次のような用例がある。
 原文:乞食于野人、野人與之塊。
 訓読:食を野人に乞ふに、野人之に塊を与ふ。
 翻訳:[重耳が]百姓に食べ物を無心すると、百姓は彼に土のかたまりを与えた――『春秋左氏伝』僖公二十三年

塊は土のかたまりの意味であることは明らか。これを古典漢語ではk'uər(呉音ではクヱ、漢音ではクワイ)といい、視覚記号としては塊と表記する。塊はどうして考案されたのか。ここから字源の話になるが、字源は語源と密接に絡む。語源を究明しないと字源も分からない。
日本語の「かたまり」は「固む」の活用形で、質に着目して生まれた語である。しかし漢語のk'uərは質ではなく、形態・形状に着目したものである。これを明らかにしたのは藤堂明保である。藤堂は鬼のグループ(鬼・塊・魁など)は回・怪・懐・骨・群・昆などと同源の単語家族を構成し、KUÊT・KUÊR・KUÊNという音形と、「丸い・めぐる・取り巻く」という基本義があるとしている(『漢字語源辞典』)。
塊は「丸い」というコアイメージをもつ語で、同じコアイメージをもつ鬼という記号を利用して、「鬼(音・イメージ記号)+土(限定符号)」を合わせた塊によって「(土の)かたまり」を表そうとしたのである。鬼はなぜ「丸い」というコアイメージをもつのか。これは古代人の亡霊に対するイメージから起こったもので、頭が目立って丸くて大きな形を想像したようである。このイメージを「鬼」という図形で表現した。「田」の部分が丸くて大きな頭、「儿」の部分が両足である。上体にだけ焦点を当てて「丸くて大きい」というイメージを「鬼」で表したのである(275「鬼」を見よ)。「丸い」や「大きい」はイメージであって、意味ではない。意味とは実際の文脈で使われる際に現れるものである。鬼は亡霊というのが意味である。亡霊と「かたまり」は語の表層レベルではつながりがないが、深層構造では「丸くて大きい」というコアイメージでつながっているのである。 

「解」

白川静『常用字解』
「会意。角と刀と牛とを組み合わせた形。牛の角を刀で切り取ることをいう」

[考察]
字形から意味を引き出すのが白川漢字学説の方法である。角+刀+牛→解=「牛の角を刀で切り取る」の意味とする。図形的解釈をストレートに意味とするのが白川漢字学説の特徴である。
意味とはいったい何であろうか。言葉の意味であることは疑いない。字形は言葉を表記する視覚記号であって、図形そのものに意味があるわけではない。凹や凸は図形そのものが意味を暗示させるが、オウやトツという言葉と一対一に対応させないかぎり、「へこむ」や「突き出る」は意味とは言えない。それは図形的解釈に過ぎない。
では意味はどこにあるのか。どうして分かるのか。言葉の使い方が意味である。与えられた文脈の前後関係で判断し把握されるのが意味である。解は次の文脈で使われている。
 原文:庖丁爲文惠君解牛。
 訓読:庖丁、文恵君の為に牛を解く。
 翻訳:料理人の丁さんは文恵君のために牛を解体した――『荘子』養生主

解はばらばらに解き分けるという意味で使われている。その意味の古典漢語はkĕg(呉音ではケ、漢音ではカイ)といい、解と表記する。訓では「とく」に当てられる。日本語の「とく」は「締まり固まっているものをゆるくして流動できるようにする意」という(『岩波古語辞典』)。漢語の解は未分化のもの、一体化したものが分散する、ばらばらに分かれるというイメージである。このイメージを表すため、具体的な場面を設定したのが解という図形である。これは牛の解体の場面である。しかし解の意味は牛とも角とも刀とも関係がない。牛・角・刀は場面造りのために利用されただけである。もし形から意味を導くと上のように「牛の角を刀で切り取る」といった意味に取りかねない。しかしよく考えてみると、牛の角を刀で切り取るとは何のことか。牛の解体は分かるが、牛の角だけを切り取るのは何のためか分からない。現実にはあり得ない意味だろう。 

「階」

白川静『常用字解』
「形声。音符は皆。阜(阝)は神が天に陟り降りするときに使う神の梯の形。皆は神霊の降下を祈るのに応えて、神霊が並んで降る形であるから、階はもと神が天から降るための階段を意味するものであったろう。“きだ(段)、きざはし(階段)”の意味に用いる」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなくすべての漢字を会意的に説く特徴がある。会意とはAの字形の意味とBの字形の意味を単純にプラスしてC(A+B)の意味を導く方法である。だから形の解釈がそのまま意味とされる。本項では
 阜(神が天に陟り降りする梯)+皆(神霊が並んで降る形)→神が天から降るための階段
という具合に意味を導く。大きな疑問は次の点である。
①神が天に上り下りする梯とは何のことか。そんものが存在するだろうか。宗教的実在か、観念か。古典における証拠があるだろうか。
②皆は神霊がそろって降ることから、「みな」の意味が出たというが(158「皆」を見よ)、本項では「並ぶ」とどう関係があるのか定かでない。神霊が列を作ってぞろぞろと階段を降るのだろうか。だとしたら、実に奇妙な風景である。

字形の解釈は何とでもできる。その解釈を意味と置き換えると、とんでもない意味が生まれる。階を「神が天から降るための階段」の意味とするのはその最たる例である。意味は字形にあるのではなく、言葉にある。意味とは言葉の意味である。言語学の常識を外れた文字学は非科学というしかない。
意味は古典の文脈における使い方、すなわち実例から求められる。階は次の用例がある。
 原文:師冕見、及階。
 訓読:師冕見(まみ)ゆるに、階に及ぶ。
 翻訳:師冕シベンが[孔子に]面会するため、階段までやってきた――『論語』衛霊公

階はきざはし、すなわち高い所に登るために造られた段々(階段)の意味であって、神とは何の関係もない。その意味をもつ古典漢語をkər(呉音ではケ、漢音ではカイ)といい、階という視覚記号で表記する。階はどんな意匠(デザイン)で考案されたのか。ここから字源の話になるが、字源は語源とともに検討しないと勝手な解釈に陥ってしまう。語源は皆という記号に含まれている。階のコアイメージの源泉が皆にあるのである。したがって階は「皆(音・イメージ記号)+阜(限定符号)」と解析される。音・イメージ記号が語の中心部分であって、限定符号は語の意味領域が何と関わるかを指定するだけである。きざはしは材料が木であったり、石であったり、いろいろだが、土を盛り上げて造る場合を想定して、「阜」(盛り上げた土の形)という符号が用いられた。皆は▯-▯の形に並ぶというイメージがあり、これが連鎖すると▯-▯-▯-▯の形に次々に並ぶというイメージに転化する(詳しくは158「皆」を見よ)。このイメージが階段のイメージであることは言うまでもあるまい。ただし段々に(順を追って)並ぶというイメージだけであって、高低のイメージは含まれていない。「上から下へ」「下から上へ」「上り下り」というイメージよりも、▯-▯-▯-▯の形に次々に並ぶというイメージに視点を置いたものである。

「開」

白川静『常用字解』
「会意。閂と廾とを組み合わせた形。廾は左右の手を並べた形。閂の中の一は門をしめるための横木である貫の木であるから、その下に廾を加え、貫の木をとりはずして両手で門を“ひらく”の意味となる」

[考察]
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。閂(門をしめる横木)+廾(両手)→貫の木をとりはずして両手で門をひらく意味とする。
門をしめる横木と両手を合わせると、門をしめるという意味になりそうなものだが、なぜ門をひらく意味が出るのか。意味の解釈に必然性がない。
意味は字形から出るものではなく、言葉の使い方、古典の文脈における用法にある。意味は言葉の意味であって、字形の意味ではない。白川漢字学説は図形の解釈をストレートに意味とするので、余計な意味素が入り込む。開には「貫の木」「とりはずす」「門」という意味素は含まれない。意味はただ「ひらく」である。
形から意味を求めるのは根本的な誤りである。

開がどのような文脈で使われているかを調べるのが先である。次の用例がある。
 原文:其比如櫛 以開百室
 訓読:其の比(なら)ぶこと櫛の如く 以て百室を開く
 翻訳:それ[穀物の束]は櫛のようにびっしり並び 多くの部屋の戸を開く[内部にそれを収め入れる]――『詩経』周頌・良耜

古典漢語では「(閉まっているものを)あける、ひらく」ことをk'ərといい、「開」という視覚記号で表記する。これはどのように工夫された図形か。ここから字源の話になる。意味は「ひらく」と確定されている。これを暗示させるために「閂(かんぬき)+廾(両手)」を合わせて開が作られた。これは両手でかんぬきをはずす情景と解釈できる。この図形的意匠(図案、デザイン)でもって「あける」を暗示させる。図形的解釈と意味を混同してはならない。意味はただ「あける」「ひらく」である。 

「絵」
正字(旧字体)は「繪」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は會。會はいろいろな食料を集めたごった煮の鍋をいう字であるが、そのように多色を使って美しい色織りを作ることを絵という。もと織物の文様・模様をいうが、のち“え、えがく”の意味に用いる」

[考察]
白川漢字学説は形声文字も会意的に説くのが特徴である。Aの形の意味とBの形の意味を合わせたものをCの字の意味とする。會(いろいろな食料を集めたごった煮の鍋)+糸=繪、そのように(いろいろな食料を集めたごった煮の鍋のように)、多色(の糸)を使って美しい色織りを作ること、と意味を導く。
白川漢字学説はほかにこんな特徴がある。①実体(本項ではAの鍋とBの糸)を重んじ、そのまま意味に加える。ただし本項ではさすがに鍋はCの意味に加えないだろう。色糸は意味に加えているようである。②構成の記号(AとB)を同列・同等に見る。Aは音符、Bは意符であるのに、AとBをのっぺらぼうにプラスして意味を取る。
形の解釈をそのまま意味とするのが白川漢字学説の最大の特徴である。その結果、図形的解釈と意味が混同され、意味に余計な意味素が混入する。意味とは形から来るものではなく、言葉に内在するものである。古典における文脈で実現させるものである。文脈がなければ意味は取りようがない。繪の意味は古典の用例を調べることによって判明する。図形から導く必要はない。意味をどう図形に表したかを検討するのが字源の役割である。

音符や意符は従来の文字学の用語である。しかし音符は音を表す発音符号ではなし、意符は意味を表す符号ではない。漢字は音素のレベルに掘り下げる文字ではなく、記号素止まりの文字である。だから音素を表す発音符号は存在しない。ただ記号素の読みを暗示させる記号が存在するだけである。しかもこれは正確に記号素を再現するものではない。重要な役割は、記号素の音を暗示させつつも、記号素の意味のイメージを暗示させることである。したがって筆者は音・イメージ記号と呼んでいる。また、意符は意味と直接関係するのではなく、語の意味領域を指定するだけである。だから筆者は限定符号と呼んでいる。

繪は「會(音・イメージ記号)+糸(限定符号)」と解析する。會と糸はレベルが違う記号である。會は語のコアイメージを表し、限定符号は語の意味がどんな領域と関係があるかをを限定する。意味と関わるのはむしろ音・イメージ記号である。會は「多くのものが一か所に集まる」「多くのものを集める」というコアイメージを示す記号である(148「会」を見よ)。繪はいろいろな色の糸を集めて模様を描き出す情景を暗示させる。しかしこんな意味を表すのではなく、意味はただ「え(painting)」である。「繪」という図形はその意味を暗示させるために考案された意匠に過ぎない。図形から意味が出るのではなく、意味を図形に表すのである。図形的解釈と意味は同じではない。

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