常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2016年07月

「逆」

白川静『常用字解』
「形声。音符は屰。屰は大(手足を広げて立つ人の形)を逆さまにした形で、向こうから来る人を上から見た形。道を歩くという意味の辵を加えた逆は、進むとは逆の方向で、迎えるの意味となる。のち。屰は大を逆さまにした形であるから、順逆の意味に使い、すべて道理に反することを逆といい、“さからう、そむく” の意味に用いる」

[考察]
おおむね妥当な字解ではあるが、疑問が二つある。①屰が「向こうから来る人を上から見た形」とはどういうことか。上空から下を見下ろした形なのか、高い建物などから人を見た形なのか。②「さからう・そむく」の意味は屰の仮借なのか。
逆の「迎える」と「さからう・そむく」の意味が統一的に説明できないのは言葉という視点がなく、形声の説明原理をもたないからである。コアイメージという概念を導入すれば、「迎える」と「さからう・そむく」がコアイメージによる意味展開として統一的に把握できる。
古典における逆の具体例を見てみよう。
①原文:當堯之時、水逆行、氾濫於中國。
 訓読:尭の時に当たりて、水逆行し、中国に氾濫す。
 翻訳:尭の時代に川の水が逆さまに行き、国じゅうを水浸しにした――『孟子』滕文公下
②原文:背丘、勿逆。
 訓読:丘を背にするは、逆(むか)ふる勿れ。
 翻訳:丘を背にした軍を迎えて戦うな――『孫子』軍争

①は順序や方向が普通とは反対になる(さかさま、あべこべ)の意味、②は出迎える意味で使われている。これを古典漢語ではngiăk(呉音ではギャク、漢音ではゲキ)という。これに対する視覚記号が逆である。屰にコアイメージの源泉がある。大(手足を広げて立つ人)の逆さ文字が屰である。逆さ文字は反対のイメージを作り出す機能がある。大は正常に立つ人の形で、これが普通であり、図示すれば↑の形である。これの反対は↓の方向である。進む場合は→の形に進んで来ることの反対は←の形に進むことである。→の形の方向に対抗して←の方向になる事態をngiăkというのである。これを表記するために「屰ゲキ(音・イメージ記号)+辵(限定符号)」を合わせた逆が考案された。屰は→の方向に対して←の方向になること、つまり⇄の形や、←→の形や、→←の形(いずれも逆方向の形)というイメージを示す。したがって逆は逆方向に行く状況を暗示させる。
順序や方向が普通とは反対になることが第一の意味。←→の形のイメージから、正当な物事や道理にそむく(さからう)の意味に展開する。また→の方向に対抗して←の方向になるというイメージから、あちらから来る人を→←の形に出迎えるという意味を派生する。このように①と②はコアイメージからスムーズに説明できる。

「脚」

白川静『常用字解』
「形声。音符は却。却は、神判に敗れた者(大)と、神への誓いのときに用いたㅂ(祝詞を入れる器)の蓋を外したものをすて去るのを跪いている人が拝している形で、“すてる、しりぞける、しりぞく” という意味がある。それに体の部分を意味する月(肉)を偏として加えた脚は、しりぞくときの“あし”をいう」

[考察]
疑問点は308「却」と共通。もう一つ疑問を追加すると、「しりぞくときのあし」とは何のことか。
古典から脚の用例を見てみよう。
 原文:抽刀而刎其脚。
 訓読:刀を抽きて其の脚を刎(は)ぬ。
 翻訳:刀を抜いてそのあしを切り払った――『韓非子』外儲説右下

注釈に「脚は脛なり」とあるように、膝から下の部分のあしの意味である。これを古典漢語ではk'iak(呉音ではカク、漢音ではキャク)という。これに対する視覚記号は腳から脚に変わった。卻→却と平行する字体の変更である。しかし卻も却も「下方(後方)に引き下がる」というコアイメージが共通である(308「却」を見よ)。「却(音・イメージ記号)+肉(限定符号)」を合わせた脚は、跪くと膝の後ろの方へ引き下がる足の部分を暗示させる図形。この意匠によってk'iakを表記する。 

「客」

白川静『常用字解』
「会意。宀は大きな屋根の形で、祖先を祭る廟。各はㅂ(祝詞を入れる器)を供えて祈り、神を招くのに応えて神が天から降る形。客は廟の中に降下し格(いた)る神で、他から迎えた神(客神という)である」

[考察]
形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。その際会意の原理が取られる。会意の原理とはCが「A+B」の場合、Aという字の意味とBという字の意味を合わせたものをCの意味とする。宀(廟)+各(神が天から降る)→廟の中に降下した神という意味を導く。
ここで疑問。①宀(建物、家)を廟に特定できるだろうか。②祝詞は口で唱える言葉だが、これを器に入れるとはどういうことか。神に祈るには祝詞を唱えるべきで、器に入れることは想像しにくい。③廟の中に降下した神とは何のことか。これが客神とは何のことか。理解ができない。
各は明らかに音符であるが、形声の説明原理がないのが白川漢字学説の特徴である。だから会意で解釈した。
形声の説明原理とは言葉の深層構造から発想することである。言葉の深層構造は音・イメージ記号である各にある。まず客の用例を古典で見てみよう。
 原文:爲賓爲客 獻醻交錯
 訓読:賓と為り客と為り 献醻交錯す
 翻訳:当家のお客となって あちこちで酒のやりとり――『詩経』小雅・楚茨

明らかにお客(ゲスト)の意味である。主に対する語が客である。自分の家にじっと構えて動かない人が主、それに対して、よそから他家にやってきて一時的にとまる人が客である。これをk'iăk(呉音ではキャク、漢音ではカク)といい、その視覚記号を客とする。これはどんな意匠のある図形か。
「各(音・イメージ記号)+宀(限定符号)」と解析する。各は歩いてやってきた足がある地点で止まる情景で、→|の形、すなわち「(固いものに)つかえて止まる」というイメージを表す記号である(176「各」を見よ)。したがって客は他人の家にやってきて足を止める情景を暗示させる。これが客の図形的意匠である。

「却」

白川静『常用字解』
「会意。去は大(人の形)と𠙴(キョ) (祝詞を入れる器のᄇの蓋をとった形)とを組み合わせた形。裁判は古い時代には裁判官が裁くのではなく、神意に従う神判の形式で実施され、祝詞を唱え、神に誓って行われた。それで裁判に敗れ、有罪になった人(大)は、祝詞は不正であったのでᄇの蓋を外して𠙴としたものとともにすてられた。去は“すてる”というのがもとの意味。卩は跪く人の形であるから、却はすてられるもの、しりぞけられるものを拝している形で、“すてる、しりぞく”の意味に用いる」


[考察]
疑問点①祝詞は口で唱える言葉なのに、なぜ器に入れるのか。唱えるべき言葉を板や布に文字で書くのか。そんなものが存在した証拠があるのか。疑わしいことである。②「去と卩」の図形からなぜ裁判が出るのか。裁判に祝詞は付き物だろうか。③有罪になった人が器の蓋を外すというのはどんな理由からか。なぜそれを捨てるのか。④なぜ捨てるものを拝する必要があるのか。⑤却に「すてる」の意味があるのか。
疑問だらけである。
字形から意味を導くのは言語学に反する。意味は言葉に属するものであって、字形に属するものではないからである。字形は言葉を表記する手段に過ぎない。言葉という視点がなく、字形だけから意味を導くと、往々恣意的な解釈に陥りがちである。しかも図形的解釈と意味が混乱して、それの区別があいまいである。
却の具体的文脈における用法を見てみよう。ここから意味を求める以外にない。
 原文:逡巡而却。
 訓読:逡巡して却く。
 翻訳:ぐずぐずしながら退却した――『荘子』秋水

却は後ろに引き下がる意味で使われている。この言葉を古典漢語ではk'iak(呉音ではカク、漢音ではキャク)という。これに対する視覚記号は篆文では卻になっている。隷書の段階から却に変わった。まず卻について。谷(「たに」ではなく郤の左側)は鼻溝を表す図形。実体に重点があるのではなく形態に重点がある。鼻溝の形態的特徴は「へこむ」というイメージ。図示すると∪の形である。これは上から下方に下がる形と見ることもできる。ここから「一線から下方に下がる」というイメージに展開する。卩は跪く人の形。膝を折ると膝から後方に∠の形に引き下がる部分が残る(この部分が脚である)。「谷(ケキ)(音・イメージ記号)+卩(イメージ補助記号)」を合わせた卻は跪くと脚が後ろに下がるように、あるものが一線から後方へ引き下がる状況を暗示させる図形。
次に却について。谷を去と取り換えたもの。去は「𠙴+大」と分析できる(土は大の変形、厶は𠙴の変形)。𠙴は底のくぼんだ箱の形であるが、実体に重点があるのではなく、「くぼむ・へこむ」というイメージだけが取られる。大は人の形。したがって「𠙴(キョ)(音・イメージ記号)+大(限定符号)」を合わせた去は人が一線から下方(後方)にへこんでいく(引き下がる)情景を設定した図形。去も谷と同じイメージを表している(335「去」を見よ)。字体が卻から却に変わっても十分にk'iakの視覚記号となりうる。

「詰」

白川静『常用字解』
「形声。音符は吉。吉は、ᄇ(祝詞を入れる器)の上に神聖な鉞を置き、祈りの効果をᄇの中にとじ込めて守るの意味で、“つめる、つまる”の意味がある。祈りの効果をとじこめて、祈りごとが実現してよい結果が得られることを責め求めるので、“とう、せめる、なじる”の意味にも使う」

[考察]
疑問点は305「吉」と共通である。字形から意味を導くという誤った方法で、吉を「祈りの効果をᄇの中にとじ込めて守る」の意味とし、詰を「祈りごとが実現してよい結果が得られることを責め求める」の意味とする。前者から後者への意味展開は必然性がない。
言葉という視点が全くないのが白川漢字学説の特徴である。詰はどんな意味で使われているか、その語を用いた文脈に当たってみる。次の用例がある。
 原文:司寇掌邦禁、詰姦慝、刑暴亂。
 訓読:司寇は邦禁を掌り、姦慝を詰キツし、暴乱を刑す。
 翻訳:司法職は国の禁令を管掌し、悪人を追及し、暴動を処罰する――『書経』周官

詰は問い詰める(罪や責任を問うて責める)という意味で使われている。この意味の言葉を古典漢語ではk'iet(呉音ではキチ、漢音ではキツ)といい、詰と表記する。これは「吉(音・イメージ記号)+言(限定符号)」と解析する。吉は「中身がいっぱい詰まる」というイメージがある(305「吉」を見よ)。器に物を入れるという具体的な場面を想定すると、物を入れていくと底の方から上に達して満杯になる。空間的に余裕がなくなる。ここに「最後のどんづまりまで突き詰める」というイメージが生まれる。「満ちる」と「詰まる」は可逆的(相互転化可能な)イメージである。かくて詰は罪などをとことんまで突き詰める状況を暗示させ、①の意味をもつk'ietを表記しうる。
白川説では詰は「つめる・つまる」の意味で、「とう、せめる、なじる」の意味にも使うというが、詰に「つめる・つまる」という意味はない。意味とは文脈で実際に使われる意味である。詰は「突き詰める」「行き詰まる」という意味はあるが、詰め込む、間隔が詰まるという意味はない。これは日本語の意味である。漢字は日本的展開も無視できないが、本来の意味とは区別しないといけない。

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