常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2016年08月

「携」
本字は「攜」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は雟ケイ。雟は頭に長い毛のある鳥(隹)を台座(冏)の上に載せた形。それに手へんを加えて、台座に載せた鳥を“たずさえる” ことを攜という」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がないので、すべて会意的に説く特徴がある。会意とはAの意味とBの意味を加えた「A+B」をCの意味とするもの。雟(頭に長い毛のある鳥を台座に載せる)+手→台座に載せた鳥を(手に)たずさえるという意味を導く。
台座に載せた鳥は物の上にある。手にたずさえるのは物が手にある。理屈に合わない。台座に載せ、その後で手にたずさえるなら分からないでもない。しかしそうすると、「台座に載せる」から「手にたずさえる」への意味展開は必然性がなくなる。
字形から意味を導く弊害が現れている。その方法自体が誤りである。というのは意味は言葉に属する概念であって、字形に属するものではないからである。
では意味はどうして知るのか。言葉が使われる文脈から知ることができる。意味は字形から引き出すものではなく、文脈から読み取るものである。攜は次の用例がある。
①原文:天之牖民 如壎如篪 如璋如圭 如取如攜
 訓読:天の民を牖(みちび)くは 壎ケンの如く篪チの如く 璋の如く圭の如く 取るが如く携ふるが如し
 翻訳:天が民を導くのは 土笛のよう竹笛のよう 璋の玉のよう圭の玉のよう 手に取るよう携えるよう――『詩経』大雅・板
②原文:惠而好我 攜手同行
 訓読:恵みて我を好まば 手を携へて同(とも)に行かん
 翻訳:私を愛してくれるなら 手に手を取って一緒に行こう――『詩経』邶風・北風

①は手にひっさげて持つ意味、②は手と手をつなぐ意味で使われている。①は物を∧の形にかけるというイメージである。手でなくても体のどこかにかけてもよい。携帯や携行はこの意味である。②は手を他人の手に∧の形にかけることで、手と手をつなぐという意味になり、手を取って引き連れる意味にもなる。提携・連携の携はこの意味である。①の意味をもつ古典漢語がɦuer(ɦuei、呉音でヱ、漢音でクヱイ)という。これを代替する視覚記号として攜が考案された。「雟(音・イメージ記号)+手(限定符号)」と解析する。『説文解字』では「周燕なり」とあり、段玉裁の注釈では燕のこととする。ツバメはその特徴により三つの呼び方がある。燕と乙(鳦)と雟である。雟は「屮(頭)+隹(とり)+冏(しり、尻尾)を合わせた図形である。ツバメを尻尾が∧の形をなしている。ツバメの形態的特徴から、「∧形をなす」というイメージをもつ圭のグループ(掛)や頃のグループ(傾)と同源と見て、ɦuerと造語し、雟と造形した。かくて攜は物を∧形に掛けて持つ情景を暗示させる。この図形的意匠によって、①の意味をもつɦuerを表記する視覚記号とした。

「傾」

白川静『常用字解』
「形声。音符は頃。頃は上から降りて来る神を迎え、姿を正し、身をかがめて拝む形。身を前に傾けて礼をするので、頃にかたむくの意味がある。頃に人をそえた傾は、その神を迎えて拝む人の姿勢をいっそう明確にした形であり、“かたむく、かたむける” の意味となる」

[考察]
字形から意味を引き出すのが白川漢字学説の方法である。頃(降りて来る神を迎えて身をかがめる)+人→降りて来る神を迎えて拝む人の姿勢→かたむくという意味を導く。
頃が「かたむく」の意味があるというからには、傾も「かたむく」の意味とすれば十分なのに、「降りて来る神を迎え、身を前に傾けて礼をする」という余計な意味を付け加える。図形的解釈と意味の区別を曖昧にする、あるいは図形的解釈と意味を混同する、これが白川漢字学説の特徴である。
意味とは言葉の意味であって、字形にあるわけではない。意味は言葉に内在する概念である。言葉の意味はそれが文脈で実際に使われる際に読み取れるものである。文脈がなければ意味の取りようがない。傾は次のような文脈で使われている。
①原文:地何故以東南傾
 訓読:地は何の故を以て東南に傾くや
 翻訳:大地はなぜ東南に傾いているのか――『楚辞』天問
②原文:哲夫成城 哲婦傾國
 訓読:哲夫は城を成し 哲婦は国を傾く
 翻訳:賢い男が城を造ると 賢い女が国を危うくする――『詩経』大雅・瞻卬

①は斜めになる(かたむく)の意味、②はバランスを失って崩れそうになる(危うくする)の意味で使われている。この意味の古典漢語をk'iueng(呉音ではキャウ、漢音ではケイ)という。これを代替する視覚記号が傾である。「頃ケイ(音・イメージ記号)+人(限定符号)」と解析する。匕は人の鏡文字である。鏡文字は反対のイメージを示すことが多い。人は正常に立っている人の形である。正常に立つイメージは「|」の形であるが正常でないのは∠の形や∧の形である。人と反対の匕は∠の形や∧の形(斜め)に傾くというイメージである。だから「 匕(イメージ記号)+頁(限定符号)」を合わせた頃は頭をかしげる様子を表す。かくて傾は人が姿勢を斜めにかたむける情景を設定した図形。この図形的意匠によって①②の意味のk'iuengを表記する。
白川説では頃に「降りて来る神を迎える」という場面を設定しているが、そんな情報はどこにも含まれていない。だいたい「降りて来る神を迎える」とはどういう事態なのか定かでない。 

「軽」
正字(旧字体)は「輕」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は巠。巠は織機にたて糸をかけ渡し、下部に工の形の横木をつけて糸を強く張った形。巠に直線的なもの、また直線的で緊張した状態であるから軽くて速いものの意味がある。それで速い車の意味となる」

[考察]
巠のグループ(径・茎・経・軽・頸など)に関しては妥当な字源説である。ただし字形から意味を導くという方法は一貫しているから、巠に「直線的なもの」「軽くて速いもの」という意味があるとしているが、巠にそんな意味はない。「直線的」というイメージはある。意味とイメージは違う。イメージは言葉の深層にあるものだが、意味は具体的文脈(表層)に現れ、実際に使われるものである。
輕は古典に次の用例がある。
①原文:甲盾五兵皆輕以利。
 訓読:甲盾五兵は皆軽くして以て利(と)し。
 翻訳:よろい・たて・五つの兵器はすべて軽くて鋭利である――『墨子』節用
②原文:輕車先出。
 訓読:軽車先に出づ。
 翻訳:身軽な車が真っ先に出てくる――『孫子』行軍

①は目方が少ない(かるい)の意味、②はスムーズに動けて身軽である(かろやか)の意味で使われている。これらの意味の古典漢語をk'iengといい、輕で表記する。これは「巠ケイ(音・イメージ記号)+車(限定符号)」と解析する。巠は「縦にまっすぐ通る」というイメージがある(431「経」を見よ)。「縦にまっすぐ通る」は「摩擦や抵抗がなくまっすぐ進む」というイメージに展開する。したがって輕は車(戦車など)が抵抗なくまっすぐ進む情景を設定した図形である。この図形的意匠によって、重量が少なく動きがスムーズな状態を暗示させる。この状態を意味する言葉がk'iengであり、前半に焦点を置くと①、後半に焦点を置くと②の意味が実現される。
 

「景」

白川静『常用字解』
「形声。音符は京。景は光のある状態をいうので“ひかり”の意味となり、光によって作られる“かげ” の意味ともなる」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなく、すべて会意的に説くのが大きな特徴である。本項でも会意的に説こうとしたが、京からの解釈ができない。だから字源を放棄した。
景は「ひかり(日光)」と「かげ」という相反する意味がある。歴史的には「かげ」の登場が早い。
 原文:二子乘舟 汎汎其景
 訓読:二子舟に乗り 汎汎たる其の景(かげ)
 翻訳:ふたりを乗せたその舟は みずもにゆらゆら影映す――『詩経』邶風・二子乗舟
語史的には『詩経』の用例が最も古い。しかし論理的には「ひかり」の意味が最初と考えられる。というのは古典漢語で「ひかり(日光)」をkiăng、「かげ」を・iăngというが、後者は前者からの音転と考えられるからである。だから「ひかり」→「かげ」に転じと見てよい。
光とかげはポジとネガのような関係である。光のある部分をA、光の差さない部分をBとすれば、光とかげはA|Bのようにくっきりと分かれる。光とかげはくっきりとした境界のついたものなので、kiăngという語には「くっきりと境界をつける」というコアイメージがある。古人は「景は境なり」と捉えている。
このkiăngに対する視覚記号が景である。これは「京(音・イメージ記号)+日(限定符号)」と解析する。京は大きな丘という意味の語だが、空間的、地理的特徴から「高い」「大きい」「明るい」というコアイメージがある(352「京」を見よ)。したがって景は物を明るく照らす日光を暗示させる。
一方、kiăngには「くっきりと境界をつける」というコアイメージもあり、日光は明暗の境界をつけるものという感覚である。明の部分に視座を置けば「ひかり(日光)」の意味、暗の部分に視座を置けば「かげ」の意味になる。のち景(ひかり)と影(かげ)で使い分けるようになった(59「影」を見よ)。 

 

「敬」

白川静『常用字解』
「会意。茍の甲骨文字の形は羊の頭をした人が跪いている形。それは牧畜をするチベット系の羌人で、犠牲に使うため捕獲されていた。攴は小枝を持って打つの意味。敬は犠牲とした羌人の前に祝詞を入れる器のᆸを置き、羌人を後ろから殴って神意を責め儆(いまし)めるの意味となる。敬は何かを神に祈る呪儀であるから、そのときの神にうやうやしく仕える心を“うやまう”という」

[考察]
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。[茍-口](羊の頭をした羌人)+ᆸ(祝詞を入れる器)+攴(打つ)→羌人を後ろから打って神意を責めいませめるという意味を導く。
「羌人を後ろから打って神意を責めいましめる」とはどういう意味か、理解に苦しむ。また「神に祈る呪儀のときの神にうやうやしく仕える心」も意味とするが、どちらが本当の意味なのか、分からない。
そのような意味が敬にあるはずもない。意味とは字形から出るものではなく、言葉の意味であり、具体的な文脈における言葉の使い方である。敬は古典で次の用例がある。
①原文:既敬既戒 惠此南國
 訓読:既に敬し既に戒め 此の南国を恵せよ
 翻訳:身を引き締めて用心し 南国に恵みを垂れたまえ――『詩経』大雅・常武
②原文:敬鬼神而遠之。
 訓読:鬼神を敬して之を遠ざく。
 翻訳:神霊には敬意を払いつつも遠ざける――『論語』雍也

①は体を固く引き締める(慎む)の意味、②はかしこまって恭しくする(うやまう)の意味で使われている。これを意味する古典漢語がkiĕngである。これを代替する視覚記号として敬が考案された。古人は「敬は警なり」「驚は警なり」という語源意識をもっていた。敬・警・驚は同音であり、「身を引き締める」というコアイメージをもつ。警(用心する、いましめる)と驚(おどろく)は明らかに心身の緊張した状態である。①②の意味をもつ敬も全く同じである。では敬という図形はどのような意匠か。「茍キョク(音・イメージ記号)+攴(限定符号)」と解析する。茍については諸説紛々で定説はない。茍の口を除いた部分は羊の頭をした羌人と見る説(白川静)のほかに、角に触れて人がはっと驚いて体を引き締めるとする説(藤堂明保)などがある。『説文解字』に「茍は自ら急に勅する(引き締める)なり」とあるから、後者の説が妥当であろう。かくて敬は「何かに驚いて急に体を固く引き締める情景」というのが図形的意匠である。これによって①②の意味をもつkiengを表記する。

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