常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2016年09月

「黒」
正字(旧字体)は「黑」である。

白川静『常用字解』
「会意。柬と火とを組み合わせた形。柬は東(橐ふくろ)の中にものがある形。これに下から火を加えて、橐の中のものを焦がして黒くする、あるいは黒い粉末にすることを示し、“くろ、くろい” の意味となる」

[考察]
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。東(ふくろ)+火→袋の中の物を焦がして黒くする(黒い粉末にする)→くろという意味に展開させる。
物が入っている袋に火を加えて焦がすというが、中のものを焦がす前に袋自体が燃えるのではないだろうか。不自然な状況である。
黑の字形分析に問題がある。白川は「柬+火」としたが、柬は練・煉・闌などに含まれ、束の中に八の符号を入れた形である。黑の上部とは似ても似つかぬ形である。黑は「A+炎」と分析すべきである。
 A=囗の中に小(三つの小点)の入った形。もっと古くは※(米印)の入った形。
Aは煤が点々とついた竈あるいは煙突の形である。単独に存在する字ではない。これに炎を合わせた黑は、火を燃やした後に煤が生じる情景を設定した図形である。
黒色を古典漢語ではhək(呉音・漢音でコク)という。古人は「黑は晦(くらい)なり」という語源意識を持っていた。また海・悔・灰・煤とも同源である。「暗い」という感覚と、くろ色から受ける印象は非常に近い。だから竈や煙突に生じる煤の色からhəkと造語され、黑という図形が考案された。
ちなみに英語のblackは印欧祖語の*bhleg-(燃える)に淵源があり、「煤で黒くなった」が原義という(『スタンダード英語語源辞典』)。くろ色の発想(名づけ)が東西で似ているとは驚くが、言語の普遍性の証拠かもしれない。

「国」
正字(旧字体)は「國」である。

白川静『常用字解』
「会意。或は囗(都市をとりかこんでいる城壁の形)の周辺を戈で守る形で、國のもとの字である。或がのちに“或いは”のように用いられるようになり、或に囗を加えて國とし、武装した国の都をいう。のち“くに”の意味に用いる」

[考察]
疑問点①或ワクと國コクは音のつながりがあるから会意ではなく形声であろう。②或の中にある小さな「口」を囗(都市を囲む城壁)とするのが疑問。③戈を重視して、國を「武装した国の都」の意味とするのも疑問。④後に「くに」の意味になったというのも疑問。
國がどのように古典で使われているかを見てみよう。
①原文:憂心慘慘 念國之爲虐
 訓読:憂心惨惨たり 国の虐を為すを念ふ
 翻訳:いたましい心の憂い 国のむごい仕打ちを思えば――『詩経』大雅・正月
②原文:心之憂矣 聊以行國
 訓読:心の憂ひ 聊か以て国に行かん
 翻訳:憂いがいっぱい胸のうち ふるさとにでも帰りたい――『詩経』魏風・園有桃

①はくにの意味、②は生まれ育った土地(ふるさと)の意味で使われている。「くに」のことを古典漢語でkuək(呉音・漢音でコク)という。これを代替する視覚記号が國である。
國と域は非常に近い。音が似ており、コアイメージも共通である(31「域」を見よ))。或は「口+一+戈」の三つの符号から成る。口は「くち」ではなく、場所を示す符号、一は線引きをする符号である。口の上下に一をつけた場合、あるいは口の上下に一(横線)と左右に|(縦線)をつけた場合もある。これらは周囲を区切ることを示している。戈はほこの形であるが、戦争の武器に限定する必要はない。単に道具を示すための符号として使われることもある(例えば識の戈は印をつける道具)。これら三つの符号を組み合わせた或は、道具を用いて線引きをして、一定の場所(範囲)を区切る情景を暗示させる。この図形的意匠によって「ある範囲(枠)を区切る」というイメージを表すことができる。
「或(音・イメージ記号)+囗(限定符号)」を合わせたのが國である。或は上記の通り「ある範囲(枠)を区切る」というイメージ。囗は囲いと関係があることを示す限定符号。したがって國は周囲を境界線で区切った領土を暗示させる。この意匠によって①のkuəkを表記するのである。 

「刻」

白川静『常用字解』
「形声。音符は亥。亥はもと獣の形であるから、獣の死体を刀を使って切り解く、“きざむ” ことをいう字であろう」

[考察]
形声の説明原理を持たず、会意的に説くのが白川漢字学説の特徴である。亥(獣)+刀→獣の死体を刀で切り解くという意味を導く。ここで疑問。獣の死体を切り解くとはどういうことか。何のためか。獣の死体を切り解くことが「きざむ」の意味になるだろうか。
白川漢字学説は言葉という視点がないため、字形から意味を導く。その根拠は字形に意味があるとすることで、字形から意味を導く方法を「字形学」と称している。
しかしこれは言語学に反する方法である。言語学では言葉(記号素)は音と意味の結合体で、意味は言葉に内在する概念と定義している。
意味は言葉が具体的文脈で使用されて初めて分かることである。文脈がなければ意味の取りようがない。刻はどんな文脈で使われるかを古典に尋ねてみよう。
 原文:王三月、刻桓宮桷。
 訓読:王の三月、桓宮の桷に刻む。
 翻訳:王の三月に桓宮のたるきに彫刻した――『春秋』荘公二十四年

刻はナイフできざむ、また、装飾(絵や文字など)をきざみつける意味で使われている。これを古典漢語ではk' ək(呉音・漢音でコク)という。この聴覚記号を代替する視覚記号が刻である。
k' ək(刻)の語源について王力(現代中国の言語学者)は契(きざむ)・鍥(きざむ)と同源としている(『王力古漢語字典』)。「きざむ」とは物に切れ目を入れる行為である。木などに刃物で切れ目を入れるとぎざぎざの形(∧や∨の形)ができる。きざむ(原因)とぎざぎざの形(結果)を入れ換えるレトリックで生まれた語がk' ək(刻)である。契が「切れ目を入れる」に重点を置く語であるのに対し、刻は「ぎざぎざの形」に重点を置く語である。
次に字源は「亥(音・イメージ記号)+刀(限定符号)」と解析する。亥は獣の骨骼の図形であるが、骨格という実体に重点があるのではなく、形態や形質に重点がある。形態からは「全体に張り詰める」というイメージ、形質からは「ごつごつと固い」というイメージがある(169「劾」を見よ)。ごつごつした形はぎざぎざざ(∧や∨)の形でもある。したがって刻はナイフで素材にごつごつ・ぎざぎざした切れ目(∧や∨のとがった形)をつけて削る情景を暗示させる。この図形的意匠によって上記の意味をもつk' əkを表記する。

「谷」

白川静『常用字解』
「象形。谷の入り口の所の形。上部の八の形が重なっているのは、山脈が重なるように迫っている形。下部は口ではなく、𠙴のような形で、谷の入り口の形であるから、全体の形が“たに” を示す。甲骨文字は谷の入り口の所にᆸ(祝詞を入れる器の形)を置いている形であって、そこは聖所として祀られたのであろう」


[考察]
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。八+八(山脈の重なり)と𠙴(入り口)を合わせた全体が谷の形で、「たに」の意味になるという。しかし谷に入り口があるのか。また甲骨文字では谷の入り口に祝詞の器を置いた形だというが、こんな情景は想像しにくい。
言葉という視点がないのが白川漢字学説の特徴である。まず言葉があり、その後に文字ができたのは明白な事実である。「たに」の形が先にあって「たに」の意味が生まれたわけではない。
言葉という視座から見てみよう。言葉としての用法は次の例がある。
①原文:惴惴小心 如臨于谷
 訓読:惴惴たる小心 谷に臨むが如し
 翻訳:びくびくと恐れる心は 谷間のふちに臨むようだ――『詩経』小雅・小宛
②原文:人亦有言 進退維谷
 訓読:人亦(また)言有り 進退維(こ)れ谷(きわま)る
 翻訳:昔の人の言葉あり 「進退ともに窮まる」と――『詩経』大雅・桑柔

①は谷間の意味、②は窮まって動きが取れない意味で使われている。これを意味する古典漢語がkuk(呉音・漢音でコク)であり、これを代替する視覚記号が谷である。
kukの語尾が変わるとkug、kungとなるが、これらは同源の単語家族を構成し、「穴、突き抜ける」という基本義があると指摘したのは藤堂明保である。自然界では谷・空・孔、人体では口・喉・胸・腔・肛などが「あな」というコアイメージをもつ。
「谷間」も穴のイメージがある。山間の大きなくぼみの地形である。これを図形化したのが谷である。上部の「八+八」は八(左右に分かれる符号)を二つ重ねた形で、別と同じ。口は穴・くぼみの形である。したがって谷は二つの山が両側に分かれて、その中間にある穴・くぼみを暗示させる。この図形的意匠(図案、デザイン)によって「たにま」を意味するkukを表記したのである。
なぜ②の意味もあるのか。「穴・くぼみ」というコアイメージがあるから、くぼみにはまって動きが取れなくなるというイメージに転じたのである。進むも退くもできなくなることを「進退谷る」という。

「告」
正字(旧字体)は「吿」である。

白川静『常用字解』
「象形。木の小枝に口(ᆸ)を著ける形。口はもとᆸで、祝詞を入れる器の形。木の小枝にᆸを著けて神前に掲げ、神に告げ祈ることをいう」 

[考察]
疑問点①「牛+口」に分析するのが古来の通説だが、白川は牛ではなく木の小枝とする。しかしどう見ても木の小枝には見えない。②祝詞は口で唱える祈りの言葉で、聴覚言語である。これを器に入れるとはどういうことか。視覚記号の文字に写し替えて木簡か布などに書いて器に入れるのか。祈りの内容は文字に写すと多量にもなるだろう。器は大きくないと入らない。これを小枝に掛けることができるだろうか。また口で告げて祈るはずなのに、なぜわざわざ器に祝詞を入れるのだろうか。いろいろ疑問が浮かぶ。③告に「神に告げ祈る」という意味があるだろうか。「告げ祈る」とはどういうことか。
字形から意味を導くのは根本的に誤りである。言葉(記号素)は音と意味の結合したもので、意味は言葉に内在する概念というのが言語学の定義である。
白川漢字学説は言葉という視座がない。そのため字形から意味を求める。これでは図形的解釈がそのまま意味となってしまい、余計な意味素が混入したり、あり得ない意味が作り出される。
まず言葉が文脈でどのように使われているかを尋ねて意味を確定し、それから言葉の深層構造を追究すべきである。これによって初めて意味と図形の関係も明らかになる。
告は古典に次の用例がある。
①原文:取妻如之何 必吿父母
 訓読:妻を取(めと)るに之を如何(いかん)せん 必ず父母に告ぐ
 翻訳:妻をめとるにはどうすべき 必ず父母にまず告げる――『詩経』斉風・南山
②原文:吿諸往而知來者。
 訓読:諸(これ)を往に告げて来を知る者なり。
 翻訳:過去のことを告げると未来のことが分かる人だ――『論語』学而

①は下位の者が上位の者に訴える意味、②は知られていないことや隠されたことを相手に話して知らせる意味で使われている。これを古典漢語でkog(呉音・漢音でカウ)という。これを代替する視覚記号として吿が考案された。
吿は「牛+口」というきわめて舌足らず(情報不足)な図形で、造形の意図がはっきりしない。梏(手を縛る枠、手かせ)や牿(牛を閉じ込める枠、檻)などから類推すると、告に「枠をきつく縛る」というコアイメージが想定される。古人は牛の角が物や人に触れて傷つけないように横木で縛ると考えて衡の由来を説明しているが、告も同じような場面から発想されたと考えてよい(『説文解字』にもこの説がある)。しかし「つげる」の意味と結びつかない。
「枠をつけて縛る」というイメージの反対側に「枠をはみ出る」というイメージがある。この二つのイメージは可逆的(相互転化可能な)イメージである。笵・範(一定の枠)――犯(枠をはみ出る)、また監(一定の枠に収める)・檻(閉じ込める枠)――濫(枠をはみ出る)というような例がある。告も同じように「枠で縛りつける」から「枠をはみ出ていく」の方向に転じたと考えられる。この場合の枠とは社会的な規制・おきて・身分・立場など人間関係を縛るものである。このような枠・壁を突破して下位の者が上位の者に訴えることを意味するkogを吿の図形によって表記したのである。
以上のように考えると吿の図形的意匠が明らかになる。「牛+口(四角い枠)」を合わせて、牛の角を縛る情景を設定し、「枠からはみ出ないようにきつく縛る」というイメージを暗示させようとした。「枠で縛る」と「枠をはみ出る」は表裏一体のイメージである。告(訴える)は枠からはみ出る行為なのであるが、「枠からはみ出る」は図形化しにくいので、反対の「枠で縛る」を図形化して「枠をはみ出る」を暗示させる手法を取った。
②の「知られていないこと」や「隠されたこと」は枠に閉じ込められた状態であり、これを突破して知らせるというのが②の意味である。

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