常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2016年11月

「醸」
正字(旧字体)は「釀」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は襄。釀は死者の衣の胸もとに、二つのᄇ(祝詞を入れる器の形)と呪具の工を四個(㠭)置く形で、胸もとが盛り上がり、ふくらむの意味となる。酉は酒樽の形。酵母がふくらみ熟することを醸という」

[考察]
白川漢字学説は形声の説明原理がなく会意的に説く特徴がある。襄(胸元が盛り上がり膨らむ)+酉(酒樽)→酵母が膨らむという意味を導く。
襄の字形分析と意味の疑問については938「壌」、941「譲」で述べたので繰り返さない。
釀は次の用例がある。
 原文:乃多釀酒。
 訓読:乃ち多く酒を醸す。
 翻訳:そこで多目に酒を造った――『史記』孟嘗君列伝
釀は発酵させて酒を造る意味である。これを古典漢語ではniangといい、釀と表記する。
釀は「襄(音・イメージ記号)+酉(限定符号)」と解析する。襄は「中に物を詰めて柔らかくする」「中に割り込ませる」というイメージがある(938「壌」を見よ)。酉は酒の意味領域に限定する符号である。釀は原料に酒のもとを入れて柔らかくし、発酵させて酒を造る情景を設定した図形である。

「譲」
正字(旧字体)は「讓」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は襄。讓は死者の衣の襟もとに、二つのᄇ(祝詞を入れる器の形)と呪具として悪霊の侵入を祓う工を四個(㠭)置く形で、悪霊を祓い清める、“せめる” の意味がある。祓い清め、せめることばを譲という」

[考察]
襄の解釈が壌や嬢では、同じ字形から「胸元が盛り上がり膨らむ」の意味とし、本項では「悪霊を祓い清める」の意味とある。不統一である。
そもそも襄の字形分析を間違えている。㠭は塞や展に含まれる記号で、襄には含まれていない。字形を間違えて引き出した意味も疑わしい。襄には「胸元が盛り上がり膨らむ」という意味も「悪霊を祓い清める」という意味もない。だから譲に「祓い清め、せめる言葉」という意味はあり得ない。いったいこれはどういう意味か。
意味とは「言葉の意味」であって字形から出るものではない。言葉の使われる文脈から出るものである。譲は古典に次の用例がある。
①原文:受爵不讓 至于己斯亡
 訓読:爵を受けて譲らず 己斯(ここ)に亡 ぶに至る
 翻訳:酒のやり取りで張り合うと 自分の身の滅びを招く――『詩経』小雅・角弓
②原文:堯以天下讓許由。
 訓読:尭天下を以て許由に譲らんとす。
 翻訳:尭は天下を許由に与えようとした――『荘子』譲王

①は人を先に立てて(他人にゆずって)自分は身をひく意味、②は自分は取らないで他人に与える意味である。これを古典漢語ではniang(呉音でニヤウ、漢音でジヤウ)という。これを代替する視覚記号として讓が考案された。
讓は「襄(音・イメージ記号)+言(限定符号)」と解析する。襄は「中に割り込む」というイメージがある(938「壌」を見よ)。讓は他人が割り込んで口出しをしたため、その人に委ねて身をひく状況を暗示させる。この図形的意匠によって上の①の意味をもつniangを表記する。譲歩の譲が最初の意味である。身をひくことから「へりくだる」の意味(謙譲の譲)にも展開する。また、割り込んできた人にゆだねて自分は身をひくという行為の前半に視点を置けば、自分は関わらないで他人にゆずる→自分は取らないで他人に与える(ゆずる)という意味が派生する。これが譲位・譲渡の譲である。
白川は「はらう、しりぞけることを攘、攘斥という。攘斥して退かせることから、譲は“ゆずる、へりくだる”の意味となる」というが、迂遠な意味展開の説明である。

「錠」

白川静『常用字解』
「形声。音符は定。説文に“鐙なり” とあって、豆とよばれる食器に脚のあるもの、いわゆる“たかつき”をいう」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなく会意的に説くのが特徴であるが、本項では定からの説明ができないので、字源を放棄している。
錠は「定(音・イメージ記号)+金(限定符号)」と解析する。定は一所に止まって動かない(落ち着く、さだまる)という意味で、この言葉の根底には「⊥の形にじっと止まる」というイメージがある(「定」で詳述する)。錠は⊥の形にじっと安定させておく金属製の器を暗示させる。この意匠によって脚のついたたかつきという意味をもつdengを表記した。
また別の意味も生じた。定には「固定する」という意味もあるので、型に入れて固定させた金属(餅や豆板の形をした金銀の塊)を同じ音で呼び同じ字で表す。これとの類似性から、似た形に固めた薬を錠という。これが錠剤の錠である。
また日本では、型(枠)にはめて固定することから、錠前や手錠という意味で使うようになった。
 

「嬢」
正字(旧字体)は「孃」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は襄。孃は死者の衣の胸もとに、二つのᆸ(祝詞を入れる器の形)と呪具の工を四個(㠭)置く形で、胸もとが盛り上がり、ふくらむの意味となる。胸のふくらんだ女、肉づきのゆたかな女を嬢といい、“はは、むすめ” をいう」

[考察]
襄の字解の疑問については938「壌」で述べた。誤った字形の解釈から引き出した意味は疑わしい。襄に「胸元が盛り上がり膨らむ」という意味はないし、嬢に「胸のふくらんだ女」という意味はない。
『説文解字』では「孃は煩攘なり」とあり、攘(みだす)の古字とされる(段玉裁の説)。しかし用例がないのではっきりしない。六朝時代になって次の用例が現れた。
 原文:旦辭爺孃去 暮宿黃河邊
 訓読:旦に爺嬢を辞して去り 暮れに黄河の辺に宿る
 翻訳:朝に父母のもとを辞し 夕べに黄河の辺りで宿る――『楽府詩集』巻二十五「木蘭詩」
孃は母の意味で使われている。当事の言葉ではniangという。これに対する視覚記号として襄を選んだのは漢字の造形原理がまだ失われていなかったからと考えられる。土壌の壌(肥えて柔らかい土)との同源意識から孃が生まれた。襄は「物を中に詰め込んで柔らかい」というイメージがあるので、体がふくよかで柔らかい女という意味合いをこめて「はは」をniangと呼び、「襄(音・イメージ記号)+女(限定符号)」を合わせて孃を作ったのである。
嬢に「むすめ」の意味はない。これは娘ジョウである(930「娘」を見よ)。日本人は娘と嬢を混同して、娘を「自分の生んだむすめ」、嬢を「他人の若いむすめ」という使い分けをしたようである。
 

「壌」
正字(旧字体)は「壤」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は襄。襄は死者の衣の胸もとに、二つのᄇ(祝詞を入れる器の形)と呪具の工を四個(㠭)置く形で、胸もとが盛り上がり、ふくらむの意味となる。一度耕して、柔らかくもりあがった土を壌という」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなく会意的に説くのが特徴である。襄(胸元が盛り上がり膨らむ)+土→一度耕して盛り上がった土という意味を導く。
死者の胸元になぜ祝詞を入れる器を二つ、呪具を四つ置くのか。こんな事態がありうるのか。またこの事態からなぜ「胸元が盛り上がり膨らむ」という意味が出るのか。呪術のようだから、それに関わる意味になりそうなものではなかろうか。更に壌は「一度耕して柔らかく盛り上がった土」という意味があるだろうか。襄にも壌にもそのような意味はない。なお㠭は塞や展に含まれる記号で、襄には含まれていない。白川は字形の解剖を間違えている。
いろいろ疑問が浮かぶ。字形から意味を引き出すこと、字形的解釈をストレートに意味とすることに問題がある。意味とは「言葉の意味」であって字形から出るものではない。具体的文脈で使われる際に現れるのが意味である。壤は次のような文脈で使われている。
 原文:彼菹菜之壤非五穀之所生也。
 訓読:彼の菹菜の壌は、五穀の生ずる所に非ざるなり。
 翻訳:野菜を植える土地は、五穀の生える所ではない――『管子』国準
壤は農耕に適する柔らかい土の意味で使われている。これを古典漢語ではniang(呉音でニヤウ、漢音でジヤウ)という。これを代替する視覚記号として壤が考案された。
『説文解字』に「壤は柔土なり」とある。農耕に適する土は堅いものではなく、柔らかく肥えた土である。現代の用語を使えば、有機物を含んだ栄養に富む土である。古代でも瘠せた土、肥饒の土の区別があった。肥饒の土を壤というのである。
壤は「襄(音・イメージ記号)+土(限定符号)」と解析する。襄は分析が難しいが、篆文(𧞻)は「𠽽+衣」に分析できる。衣の中に𠽽を入れた字形である。𠽽は「吅(二つ並べる形)+爻(二つ交える符号)+𢏚」と分析する。𢏚は寿の古字に含まれるものと同じで、田の畝である(792「寿」を見よ)。𠽽は田を鋤き返して肥料などを混ぜて、土を柔らかくする状況を設定した図形と解釈できる。この意匠によって「中に物を入れて柔らかくする」というイメージを表す。𠽽と衣を合わせた襄は、衣の中に綿などを詰め込んで柔らかくする状況を暗示させる。この図形的意匠によって「中に割り込ませる」「中に物を入れて柔らかくする」というイメージを表す記号とした。かくて壤はいろいろな物(肥料など)を含んで柔らかい土を暗示させる。

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