常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2016年12月

「則」

白川静『常用字解』
「会意。鼎と刀とを組み合わせた形。鼎の側面に刀を加える形で、鼎に銘文を刻むこと、またその刻んだ銘文を則という」

[考察]
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。鼎(かなえ)+刀(かたな)→鼎に銘文を刻むという意味を導く。
鼎と刀という舌足らず(情報不足)な図形から、なぜ「銘文を刻む」の意味が出るのか。則にそんな意味はない。
図形的解釈と意味を混同するのは白川漢字学説の全般的な特徴である。
意味とは「言葉の意味」であって字形から出るものではない。言葉の使われる文脈から出るものである。則の使われている文脈を尋ねてみよう。
①原文:不識不知 順帝之則
 訓読:識らず知らず 帝の則に順ふ
 翻訳:知らず知らずのうちに 天帝の法則に従った――『詩経』大雅・烝民
②原文:視民不恌 君子是則是傚
 訓読:民を視ること恌チョウならず 君子は是れ則(のつと)り是れ傚(なら)ふ
 翻訳:人の扱い手厚くて 君子はまことに模範的な人だ――『詩経』小雅・鹿鳴

①は従うべき基準・手本・ルールの意味、②は手本・模範とする(のっとる)の意味で使われている。これを古典漢語ではtsәk(呉音・漢音でソク)という。これを代替する視覚記号しとして則が考案された。
則の左側は篆文の字体から貝であるが、それ以前は鼎であった。したがって「鼎+刀」に分析する。鼎は煮炊きする調理用具である。刀はナイフや庖丁の類と考えてよい。調理に付き物の道具である。「鼎+刀」でもって鼎(本体)の側にナイフ(付き物)が添えてある情景を設定した図形である。この図形的意匠によって「本体のそばにくっつく」「くっついて離れない」というイメージを表す記号になる。この図形的意匠によって、いつもそばに置いて離れてはならない基準となるもの、手本・ルール・法則という意味をもつtsәkを表記する。
白川は「鼎に刻まれた約剤(注―契約の銘文)はそのまま守るべき規則とされたので、則は“のり、おきて、手本、のっとる”の意味となる」と述べる。この意味展開は必然性がない。すべての銘文が規則になるとは限らないだろう。言語外から意味展開を説明する白川説では「則ち」の意味を説明できない。
「(本体の側に)くっつく」というコアイメージから「則ち」の用法が生まれるのである。「くっつく」とは空間的イメージだが時間的イメージにも転用され、「間隔が近い」「時間の間を置かない」というイメージになる。Aという事態が起こると間を置かずにBという事態が引き続いて起こる場合に「A則ちB」というのである。 

「促」

白川静『常用字解』
「形声。音符は足。説文に“迫るなり” とあり、人の背後に迫るの意味であり、行為を“うながす、せきたてる”の意味に用いる」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなく会意的に説くのが特徴であるが、本項では会意的に説明できず、字源を放棄している。
白川漢字学説は言葉という視点がなく、深層構造にタッチしないから、足の意味を「あし」としか見ないので、促を解釈できないのは当然であろう。しかも促の意味を取り違えている。促に「人の背後に迫る」という意味はない。
古典における促の用例を見てみる。
 原文:命重耳促自殺。
 訓読:重耳に命じて自殺を促す。
 翻訳:重耳[人名]に命令して自殺するよう迫った――『史記』晋世家
促は何かをするように迫る(せきたてる、うながす)の意味である。これを古典漢語ではts'iuk(呉音でソク、漢音でショク)という。これを代替する視覚記号しとして促が考案された。
促は「足(音・イメージ記号)+人(限定符号)」と解析する。足は実体に重点があるのではなく機能に重点がある。足の機能は左右の足を引きつける動作を連続させて進むことにある。ここに、空間を短縮させる(縮める)というイメージがある(1157「足」を見よ)。空間的イメージは時間的イメージ、心理的イメージにも転用される。時間的には「間を狭める」、心理的には「せかせかする」というイメージである。したがって促は人をせかせかと間を置かずにせきたてる状況を暗示させる。この意匠によって上記の意味をもつts'iukを表記した。
コアイメージがそのまま意味として実現されることもある。促音の促は「縮める」という意味である。 

「足」

白川静『常用字解』
「象形。膝の関節から下の足の形。上部の口は関節の部分、下部の止は足あとの形で、足先を示す。足は足の形全体を写すのではなく、膝と足先とを組み合わせて“あし” を示している」

[考察]
字形の解説としては妥当であるが、言葉という視点が抜け落ちているので、足になぜ「たりる」の意味があるかを説明できない。
言葉という視点に立って足を見てみよう。まず古典における用例を尋ねる。
①原文:鹿斯之奔 維足伎伎
 訓読:鹿の奔る 維(こ)れ足伎伎キキたり(斯はリズム調節詞)
 翻訳:鹿は駆けるよ 足取り軽く――『詩経』小雅・小弁
②原文:室家不足
 訓読:室家足らず
 翻訳:部屋と家[夫婦となるための条件]が足りませぬ――『詩経』召南・行露

①はあしの意味、②は欠け目なくいっぱい満ちる(たりる)の意味である。これを古典漢語ではtsiuk(呉音でソク、漢音でショク)という。これを代替する視覚記号しとして足が考案された。
語源については藤堂明保が、「足は捉・促や縮と同系のコトバで、人間が一歩ごとに、両足の開きを縮め、左足を右足にぐっと引きつける点に着目した命名である」と明快に述べている。足の機能は進むことにも止まることにもあるが、進む際には、Aの足とBの足の間隔を縮める動作を連続させて前に進むことができる。二点間を短縮させる(縮める)というのがtsiukという語のコアにあるイメージである。
次に字源は「〇(変化して口)+止(footの形)」を合わせて、くるぶし(膝小僧)から足先までの部分を描いた図形である。
意味はコアイメージによって展開する。「(二点間の距離を)縮める」というイメージは「二点間の空間を隙間なく埋める」というイメージに転化し、上の②の意味に転義する。
「あし」と「たりる」という何の関係もなさそうな意味展開を合理的に説明するのはコアイメージという概念である。言葉の深層構造にあるイメージを捉えることが重要である。字源だけを扱う漢字学には限界がある。

「束」

白川静『常用字解』
「象形。雑木をたばねてくくる形。“たばねる、つかねる、たばねたたば、たば” の意味に用いる」

[考察]
木をたばねた形から「たばねる」の意味が出たという解釈である。字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。
これは逆立ちした学説である。言葉が先にあり、文字は後にできたということは明白な事実である。文字は言葉を表記する手段である。意味は言葉に属する概念であって、字形に属する概念ではない。漢字の見方は「字形→ 意味」の方向ではなく、「意味→字形」の方向に見るのが正しい見方である。
「意味→形」の方向から束を見てみよう。束は古典で次のような文脈で使われている。
①原文:牆有茨 不可束也
 訓読:牆(かき)に茨有り 束(つか)ぬるべからず
 翻訳:垣根にハマビシが生えている それを束ねてはいけない――『詩経』鄘風・ 牆有茨
②原文:生芻一束
 訓読:生芻セイスウ一束
 翻訳:[贈り物は]刈り立てのまぐさ一束――『詩経』小雅・白駒

①は縛って一まとめにする(たばねる)の意味、②は束ねたものの意味、また、それを数える助数詞である。これを古典漢語ではsiuk(呉音でソク、漢音でショク)という。これを代替する視覚記号しとして束が考案された。
古人は「束は促なり」と語源を説いている。促だけでなく、縮・粛とも同源で、「縮める」「締めつける」というコアイメージがある。
束は木の間にᄆの符号を入れて、木をぎゅっと縛る情景を暗示させる図形である。この意匠によって上の①②の意味をもつsiukを表記した。
「締めつける」というコアイメージから、動きが取れないように締めつける意味に展開する。これが束縛・拘束の使い方である。 

「即」
正字(旧字体)は「卽」である。

白川静『常用字解』
「会意。皀きゅうと卩せつとを組み合わせた形。皀は𣪘(食器)のもとの字。卩は跪く人を横から見た形。即は食膳の前に人が跪く形で、食事の席に即くの意味となる」

[考察] 
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。皀(食器)+卩(跪く人)→食事の席につくという意味を導く。
字形の解釈をストレートに意味とするのは白川漢字学説の全般に見られる特徴である。この解釈では意味に余計な意味素が混入しがちである。またあり得ない意味が導かれることも多い。即に「食事の席につく」という意味はない。
意味とは「言葉の意味」である。言語学では言葉(記号素)は音と意味の結合したものと定義される。意味は言葉に内在する概念である。言葉という聴覚記号を、レベルの異なる視覚記号に切り換えたのが文字である。文字は言葉を前提として存在するもので、言葉を離れては文字はない。言葉を無視しては意味を捉えることはできない。字形から意味を求める白川漢字学説は言語学に反する。
言葉の意味はどうして知ることができるのか。それは言葉の使われる文脈から知ることができる。文脈がなければ意味を知りようがない。即は古典に次の文脈がある。
①原文:豈不爾思 子不我卽
 訓読:豈(あに)爾を思はざらんや 子シ我に即(つ)かず
 翻訳:私はお前を思っているのに お前は私に寄りつかぬ――『詩経』鄭風・東門之墠
②原文:君命一宿、女卽至。
 訓読:君一宿を命ずるに、女(なんじ)即ち至る。
 翻訳:殿は一晩休むように命じたのに、お前は即日やって来た――『春秋左氏伝』僖公二十四年

①はAの側にBが寄り添う(就く、寄りつく)の意味、②はすぐさまという意味で使われている。これを古典漢語ではtsiәk(呉音でソク、漢音でショク)という。これを代替する視覚記号として卽が考案された。
卽は「皀+卩」に分析する。皀は食の下部に含まれ、食べ物を器に盛った形、卩は跪いた人の形である。したがって卽はごちそうの側に人が就いている情景を設定した図形。しかしそんな意味を表すのではない。Aという本体の側にBという別のものが寄り添ってくっつくことを暗示させるのが、図形的意匠の意図である。これによって上の①の意味をもつ tsiәkを表記した。
なぜ②の意味が生まれたのか。白川は「席につくことを即席といい、その場の意味となり、その場にのぞんですぐことをすること、“すぐさま、ただちに” の意味となる」と述べる。食事の席につくことから「すぐさま」の意味が出たという説明である。しかし「食事の席につく」という意味はないから、この説明は成り立たない。
「(二つのもの、AとBが)くっつく」というのが卽のコアにあるイメージである。AとBは空間的に距離のない状態である。空間的イメージは時間的イメージにも転用される。二つの時間に間隔がない状態、これが「すぐさま」の意味として実現されるのである。
一般意味論では転義をメタファーで説明するが、コアイメージが転義の契機・原動力になるのは漢語意味論の特徴の一つである。あるいはこれは言語における普遍性かもしれない。

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