常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2017年02月

「昼」
正字(旧字体)は「晝」である。

白川静『常用字解』
「会意。聿と日とを組み合わせた形。聿は筆を手(又)に持つ形。篆文は日の周囲に專が加えられているので、聿の下は暈の形ではないかと思われる。金文の形は下が日の形であるから、日に対する何らかの呪儀を示す字とみられる。日(太陽)の異変に対する祓いの方法であろうかと思われる」

[考察]
字形の解剖にも意味の取り方にも疑問がある。「日に対する何らかの呪儀」とはいったい何のこのか。「日の異変に対する祓いの方法」がなぜ「ひる」の意味になるのか。理解不能である。
また聿(筆)は何の役割があるのか。これの説明がない。「聿(筆)+日」から「ひる」の意味を導くのは無理である。
古人の解釈を見ると疑問が氷解する。『説文解字』に「晝は、日の出入、夜と界を為す。畫の省に従ひ、日に従ふ」とある。字形は「畫の略体+日」と分析する。昼は日の出から始まり、日の入りで終わる。次は夜である。昼と夜の境界を示す記号が晝だというのである。この解字は全く正当である。古典漢語における一日の時間帯の区分は朝・昼・夜の三区分である。朝の暗いうちはまだ日の出の前である。日が出てあたりが明るくなる頃から昼が始まる。日が入って暗くなる頃から夜になる。何時から何時までと決まっているわけではないが、日が出て明るくなり、人が活動する時間帯が昼という捉え方である。
晝という字に含まれる畫(区画の画)が、昼と夜との区切り目を示している。字源は「畫+日」なので、畫の説明をすれば晝の字源は完成する。では畫とは何か。これについては140「画」で説明している。もう一度振り返る。
畫の篆文は、上部に「聿」、その下に「田」、また「田」の左右と上下に四本の線(縦線と横線)がある。結局畫は「左右上下の線で区切る形(イメージ記号)+聿(イメージ補助記号)+田(限定符号)」と解析できる。聿は筆であり、筆は書いたり区切ったりする道具なので、イメージを補助するための記号となる。田は田に関する場面を作り出すための限定符号である。かくて畫は田の周囲に区切りをつける情景を設定した図形である。この意匠によって、周囲を区切るという意味をもつ古典漢語ɦuĕkを代替する視覚記号とする。(以上、140「画」の項)
平面を区切ることから拡大されて、線を区切ることも畫という。図示すると―|―の形である。これは空間的イメージだが、当然時間にも転用できる。日が出た後、日が入る時間を区切ると、昼|夜のように区切れる。夜は昼を挟んで両側にある時間帯という捉え方なので、夜|昼|夜のようにも区切れる。『説文解字』でいう「日の出入、夜を界と為す」とはこのような区切り方と考えてよいだろう。
 

「注」

白川静『常用字解』
「形声。音符は主。主は燭台の形で、鐙あぶらざらの中で燃えている炎を加えている形である。説文に“灌そそぐなり” とあり、鐙の中に油を注ぐの意味であろう」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなく会意的に説くのが特徴である。主(燭台)+水→鐙(あぶらざら)に油をつぐという意味を導く。
注にこんな意味はあり得ない。意味とは「言葉の意味」であって、文脈に使われる意味である。古典での注の使い方を見てみよう。
①原文:泂酌彼行潦 挹彼注茲
 訓読:泂(とほ)く彼の行潦に酌み 彼に挹(く)み茲(これ)に注ぐ
 翻訳:あに遠いにわたずみから 水を汲んで器につぎ入れる――『詩経』大雅・泂酌
②原文:豐水東注 維禹之績
 訓読:豊水東に注ぐ 維(こ)れ禹の績
 翻訳:豊水は東にそそぐ 禹の造った功績だ――『詩経』大雅・文王有声

①は水をつぎ入れる意味、②は川が他の川や海に流れて入る意味である。これを古典漢語ではtiug(呉音でス、漢音でシュ)という。これを代替する視覚記号しとして注が考案された。
注は「主(音・イメージ記号)+水(限定符号)」と解析する。主については780「主」で述べているが、もう一度振り返る。
主の解釈は『説文解字』に「鐙(灯をともす皿)の中の火主(灯心)なり」というのが参考になる。段玉裁は主を炷(ともしび)の原字とした。これはほぼ定説になっている。主は蠟燭台の上で炎が立って燃えている図形と解釈できる。しかし「ともしび」という実体に重点があるのではなく形態に重点がある。炎が立って燃えている姿から、「⊥の形にじっと立つ」というイメージだけが取られるのである。つまり「じっと立って動かない」というコアイメージをもつ言葉がtiugなのである。(以上、780「主」の項)
揺れている炎に焦点があるのではなく、⊥の形に立つという灯心に焦点がある。主を取り巻くグループ(主・住・注・柱・駐など)は「⊥の形にじっと立つ」「定位置にじっとして動かない」というコアイメージがある。
これで注はどんな行為かが明らかになる。液体を器に入れる際には、上から下の方向に液体は⊥の形にじっと立つ姿(柱状)を呈する。だから「つぎ入れる」行為をtiugといい、注という図形で表記するのである。


 

「抽」

白川静『常用字解』
「形声。音符は由。由は瓢簞の類の実が熟して溶け、殻の中がからっぽになった形であるが、抽はその熟した実を抜き取るの意味であろう」

[考察]
「瓢簞の熟した実を抜き取る」の意味とは奇抜である。抽にこんな意味があるはずもない。字形の解釈と意味を混同している。
白川漢字学説には形声の説明原理がないので、会意的に説き、字形の解釈をそのまま意味とするのが特徴である。
由の解字もおかしい。どこから見ても瓢簞には見えない。瓢簞の実は熟すると自然に溶けるものだろうか。実の中を空っぽにして容器などに使うのは、実の中身をくりぬいたからであろう。もし自然に空っぽになるならば、「抜き取る」という行為も不要になるはず。抽の意味が瓢簞の実を抜き取る行為から出たというのは矛盾している。
抽は語史が古く、次の用例がある。
 原文:楚楚者茨 言抽其棘
 訓読:楚楚たる茨シ 言(ここ)に其の棘(とげ)を抽く
 翻訳:ずらりと並び生えたハマビシ そのとげを引き抜く――『詩経』小雅・楚茨
抽は引き出す・引き抜くの意味で使われている。これを古典漢語ではt'iog(呉音・漢音でチウ)という。これを代替する視覚記号として抽が考案された。
抽は「由(音・イメージ記号)+手(限定符号)」と解析する。由については1262「宙」で述べているが、もう一度振り返る。
由の字源については諸説紛々で定説はないが、カールグレン(スエーデンの中国語学者)が、ある範囲から出ていく図形で、それによって「~から出ていく」ことを示したと解釈したのが比較的良い。由は何かの実体を表すのではなく、ある区画(曰)から上方に縦棒(|)が抜け出る状況を示す象徴的符号と解したい。この意匠によって、「ある所・範囲を通って出てくる」「通り抜ける」というイメージを示す記号になりうる。軸は車の車輪と車輪の間を通って両端が抜け出た心棒を表す。(745「軸」の項)
由は「ある所を通って出ていく」「通り抜けて出る」というイメージを示す記号である。実際由は経由のように「通って行く」の意味が具体的文脈で実現されている。抽は手の動作・行為に限定されて、上記のような意味が実現されるのである。ある所(空間)から物をずるずると通して出すようにする行為である。これは抽出の抽である。「ひきだし」を抽斗というが、ここにも「引き出す」「抜き出す」のイメージがはっきりしている。
 

「忠」

白川静『常用字解』
「形声。音符は中。説文に“敬むなり”とあり、心を尽くすの意味とする。甲骨文字の中は旗竿の上部と下部に吹き流しをつけた中軍の旗の形であるから、心を尽くすとは心を支配するという意味をも含むと見てよい。“心を尽くす、まごころ、まこと、ただしい、つつしむ”などの意味に用いる」 

[考察]
この説明では忠の意味がよく分からない。「敬(つつし)む」がなぜ「心を尽くす」の意味なのか。「心を尽くす」ことがなぜ「心を支配する」の意味を含むのか。中が中軍の旗だから、中に「支配する」 の意味が含まれるのか。意味の展開が混沌として捉えどころがない。
古典における忠の用例を見るのが先決である。次の文脈で使われている。
 原文:爲人謀而不忠乎。
 訓読:人の為に謀りて忠ならざるか。
 翻訳:人のために考えてやったのに、真心をこめていなかったのではないか――『論語』学而
忠はまじめで誠実な心、つまり真心という意味で使われている。これを古典漢語ではtiongという。これを代替する視覚記号として忠が考案された。
忠は「中(音・イメージ記号)+心(限定符号)」と解析する。上記の文献の注釈では「忠は中心なり」とある(『論語義疏』)。 忠と中は全く同音である。忠と中の同源意識があったから、「忠は中なり」「忠は中心なり」と言える。中心とは真ん中の心である。
日本語では誠実なことを「まごころ」という。「ま」とは「まこと」の「ま」である。「ま」は「片の対。揃っている、完全である、本物である、すぐれているなどの意を表す」。だから「まごころ」は「濁りや偽りのない心」の意味である(『岩波古語辞典』)。漢語の忠は「中の心」であって、ただ中のイメージだけから成り立っている。では中とは何か。
1258「中」で述べたが、もう一度振り返ってみる。
『説文解字』では「中は内なり。口に従い、|は上下通ず」と説明している。これは意味と字形を同時に説明している。言葉の面では通に重点がある。通(t'ung)と中(tiong)は音が似ている。ある範囲・空間を上下または左右に突き通っていったその枠内の軌跡が「うち」であり、上下・左右のどちらにも片寄らない位置が「なか」「まんなか」である。このようにして「なか」の概念が成立したと考えられる。(以上、1258「中」の項)
中とは「上下・左右どちらにも片寄らない(偏らない)位置」である。これが中心である。だから中の心とは偏りがなく行き届いた心である。邪心は邪(斜め)の心、偏った心であるが、中心(まごころ)は偏らない心、言い換えればよこしまでない心、偽りのない心である。これを漢語では忠というのである。
 

「宙」

白川静『常用字解』
「形声。音符は由。由は瓢簞の類の実が熟して溶け、殻の中がからっぽになった形で、宙は“ひろい、ひろいもの” の意味に用い、宇宙のようにいう」

[考察]
字形の解剖にも意味の取り方にも疑問がある。由は殻が空っぽになった瓢簞には見えない。だいたい瓢簞は実が熟したら殻の中が空っぽになるだろうか。実をくり抜いたものがいわゆる瓢簞(容器としてのひょうたん)ではなかろうか。また「空っぽ」から宙の意味を「広い」とするが、こんな意味は宙にはない。また宀の説明がない。
『説文解字』では舟や車が到り着く所というが、終点(到着地点)の意味か。用例がないので分からない。段玉裁は棟が本義だという(『説文解字注』)。次の用例がある。
 原文:燕雀佼之、以爲不能與之爭於宇宙之間。
 訓読:燕雀之を佼(あなど)り、以為(おも)へらく、之と宇宙の間に争ふ能はず。
 翻訳:燕と雀はこれ[鳳凰]をばかにしてこう思った。こいつとは屋根と棟の間で競えないね――『淮南子』覧冥訓

宇宙という言葉はもともと建物と関係があり、宇は屋根、宙は棟木のことである。
宙は由にコアイメージの源泉がある。由については745「軸」で触れている。
由の字源については諸説紛々で定説はないが、カールグレン(スエーデンの中国語学者)が、ある範囲から出ていく図形で、それによって「~から出ていく」ことを示したと解釈したのが比較的良い。由は何かの実体を表すのではなく、ある区画(曰)から上方に縦棒(|)が抜け出る状況を示す象徴的符号と解したい。この意匠によって、「ある所・範囲を通って出てくる」「通り抜ける」というイメージを示す記号になりうる。軸は車の車輪と車輪の間を通って両端が抜け出た心棒を表す。(745「軸」の項)
このように由は「通り抜ける」というイメージがある。通っていく方向は水平方向でも垂直方向でも構わない。棟木は屋根を水平方向に通っている。だから「由(音・イメージ記号)+宀(限定符号)」を合わせた宙によって、棟木を意味するdiogという古典漢語を表記した。
広大な空間というのは転義である。宇は⁀の形をした屋根の意味で、これを延長させた(あるいは⁀の形をした)空間を宇という。 宙は→の形に突き抜けるというイメージから、↑の形に上方に限りなく突き抜ける空間の意味に転じる。宇と宙を合わせて、限りなく広大な空間の意味になった。

↑このページのトップヘ