常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2017年03月

「墜」

白川静『常用字解』
「会意。隊は阜(神が天に陟り降りするときに使う神の梯)の前に、犠牲の獣である㒸を置く形で、神の降りたつところを示す。土は土を饅頭形にまるめて台の上に置く形で、それを土地の神とする。墜は神の降りたつところに土地の神を祭り、神の降りたつところという意味であった。それで墜は“とち、つち、ところ”の意味となり、地のもとの字であった」

[考察]
隊と墜は音のつながりがあるから形声のはず。白川漢字学説には形声の説明原理がなく会意的に説くのが特徴である。阜(神が天に上り下りする梯)+㒸(犠牲の獣)+土(土地の神)→神の降りたつところ→土地という意味を導く。
神が天に上り下りする梯とは何のことか。こんな物が実在するのか。神が降りた所で土地の神を祭るとはどういうことか。天から降りる神と土地の神はどんな関係があるのか。天の神と地の神が出会う所が土地だというのか。そもそも墜に土地という意味があるのか。疑問だらけである。
白川は地の籀文である墬と墜を混同しているようである。前者は地の異体字で、墜落の墜とは別字である。墜の解釈は誤解の上で成り立っており、その解釈字体も不自然である。
墜の用例を古典に尋ねてみる。
 原文:文武之道、未墜於地、在人。
 訓読:文武の道、未だ地に墜ちず、人に在り。
 翻訳:文王・武王の道はまだ地に落ちておらず、人々の間に存在する――『論語』子張
墜は落ちる意味で使われている。これを古典漢語ではdiuər(呉音でヅイ、漢音でツイ)という。これを代替する視覚記号しとして墜が考案された。
墜の前に隊があった。実は隊に部隊の隊と、墜落の墜の二通りの意味(使い方)があった。これについては1197「隊」で述べている。もう一度振り返ってみよう。
 隊は「㒸スイ(音・イメージ記号)+阜(限定符号)」と解析する。㒸にコアイメージの源泉がある。これはどんなイメージか。㒸は「八(両側に分かれる符号)+豕(ブタ)」に分析できる。ブタの腹が太って↲↳の形に張り出ている情景を設定した図形である(999「遂」を見よ)。太ったブタの腹の形態的特徴から、「集まったもののかたまり」「多くの物の集まり」というイメージがある。また視点を変えると、重みで垂れ下がる状態から、「↓の形に重力がかかって垂れ下がる」「ずっしりとして重い」というイメージも表すことができる。㒸は「多く集まる、物の集まり」と「ずっしりと重い」という二つのイメージを表すことができる。この二つのイメージは可逆的(相互転化可能)なイメージであり、隹や屯にも同じイメージ展開の例がある。かくてなぜ上記のような二つの意味があるかが明らかになった。「ずっしりと重い」のイメージから「おちる」の意味、「多く集ま る」のイメージから兵士などの集団の意味が実現されるのである。(以上、1197「隊」の項)
墜は落(雨や葉っぱなどがぱらぱらと落ちる)とはイメージの違う言葉で、重いものがずしんと落ちるという意味である。 

「追」

白川静『常用字解』
「会意。𠂤は軍の出征のとき、祖先を祭る廟や軍社で戦勝祈願の祭りをするときに供える肉(脤肉という)の形。軍が行動するときには常にこの脤肉を捧げて行動した。辵(辶)には行くの意味がある。脤肉を捧げて追撃することを追といい、敵を追うの意味となる」 

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなくすべて会意的に説く特徴がある。𠂤(脤肉)+辵(行く)→脤肉を携えて追撃するという意味を導く。
行軍するときに脤肉を携えるというが、これは生の肉か、干した肉か。また何の肉か。行軍する先々で祭壇に供えて祭るのか。証拠のない古代習俗(?)から追を説明しようとするが、言葉という視点が欠落しているのが問題である。字形から意味を読み取るのは無理である。むしろ誤った方法である。
意味とは「言葉の意味」であって、文脈以外に意味の生成・発現する場はない。追は古典で次のような文脈で使われている。
①原文:夏公追戎于濟西。
 訓読:夏、公戎(えびす)を済西に追ふ。
 翻訳:夏に公はえびすを済水の西へ追い払った――『春秋』荘公十八
②原文:來者猶可追。
 訓読:未来はまだ追いつける――『論語』微子

①は追い払う意味、②は後を追いかける意味で使われている。これを古典漢語ではtiuər(呉音・漢音でツイ)という。これを代替する視覚記号しとして追が考案された。
追は「𠂤タイ(音・イメージ記号)+辵(限定符号)」と解析する。𠂤は708「師」などでも述べたが、集団というイメージを表す記号である。𠂤は土を積み重ねた図形で、後の堆積の堆に当たる。「物の集まり」というイメージのほかに、形態的な特徴から「ずっしりと重い」というイメージも表すことができる。重いとは↓の形に圧力・重力が加わることである。上から下へは垂直のイメージであるが、視点を水平に換えると、「→の形に圧力・重力をかける」というイメージに転化する。イメージは変容・転化するものである。推進の推にもこのようなイメージ転化が見られる(997「推」を見よ)。
辵は歩行・進行と関係があることを示す限定符号。したがって追は人に圧力・重力を加えて前に進めて行かせる情景というのが図形的意匠。この意匠によって、前の人に圧迫をかけてその後についていくこと、つまり「追い払う」の意味をもつtiuərを表記する。これが上の①である。追い払う意図はなくただ「前の人の後を追いかける」という意味にも展開する。これが上の②である。
白川は②だけの意味だけを捉え、追放の意味を記述していない。
 

「鎮」
正字(旧字体)は「鎭」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は眞。眞は匕(死者の形)と県(首を逆さまに懸けている形)とを組み合わせた形で、不慮の災難にあって行き倒れた人をいう。行き倒れの人の怨霊は瞋いかりのために強い力を持つ霊として恐れられたので、その瞋を鎮めるために瑱みみだまを用い、祠を作ってその中に寘き、慎んで鎮魂の儀礼をした。“しずめる、しずまる、おさえる”の意味に用いる」

[考察]
字形の解剖にも意味の取り方にも疑問がある。眞を「匕+県」に分析しているが、県の下部は「小」であって明らかに眞の下部とは違う。これについては967「真」で指摘している。字形分析がそもそも間違っているから、その解釈の妥当性も疑われる。行き倒れの人に対する鎮魂儀礼という解釈には何の証拠もない。鎮は金偏がついているのに、これの説明がないのも変である。
古典における鎮の用例を見るのが先決である。
①原文:白玉兮爲鎭
 訓読:白玉を鎮と為す
 翻訳:白玉で座席を押さえる――『楚辞』九歌・湘夫人
②原文:相鎭以聲。
 訓読:相鎮むるに声を以てす。
 翻訳:声を押さえつける――『荘子』徐無鬼

①は動かないように押さえる道具の意味、②は重みをかけて押さえつける意味に使われている。これを古典漢語ではtien(呉音・漢音でチン)という。これを代替する視覚記号しとして鎭が考案された。
鎭は「眞(音・イメージ記号)+金(限定符号)」と解析する。眞については967「真」で述べたが、もう一度振り返る。
 眞は篆文の字体だが、金文に遡ると「匕+鼎」と分析できる(白川は故意に金文を無視している)。匕はナイフやスプーンの形(匕首の匕、また匙に含まれている)。鼎にはナイフやスプーンが付き物である。眞の場合はスプーンと見たい。スプーンで鼎に素材を入れる情景を設定したのが眞である。この図形的意匠によって「中に詰め込む」「中身が詰まる」というイメージを表すことができる。
金は金属と関係があることを示す限定符号。したがって鎭は中身がいっぱい詰まった金属製の道具を暗示させる図形となっている。この意匠によって、物を押さえるためのおもしになる道具を意味するtienを表記する。文鎮の鎮はこの意味。重鎮はこれの比喩的用法。動詞としては上の②の意味に転じる。鎮圧、鎮静、鎮魂などの鎮がこれである。白川は転義と本義を見誤った。

「賃」

白川静『常用字解』
「形声。音符は任。説文に“庸ふなり”とあり、賃金・賃銀を払って人を使うことをいう」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなくすべて会意的に説くのが特徴であるが、本項では任からの説明ができず、字源を放棄している。
まず古典における用例を見てみよう。
 原文:僕賃於野。
 訓読:僕として野に賃(やと)はる。
 翻訳:奴隷として野良で雇われた――『春秋左氏伝』襄公二十七年
賃は代金を払って人をやとう意味で使われている。これを古典漢語ではniəm(呉音でニム、漢音ヂム)という。これを代替する視覚記号しとして賃が考案された。
賃は「任(音・イメージ記号)+貝(限定符号)」と解析する。任はその項で詳説するが、古典に「任は抱なり」とあるように、荷物を抱きかかえることである。妊娠の妊も胎児を子宮で抱きかかえた姿を呈する。壬は「ふくらむ・ふくれる」というコアイメージをもつ記号なので、「抱きかかえる」と「ふくらむ」にはイメージのつながりがある。 任は腹の前で荷物を抱きかかえることで、横から見ると腹がふくれた姿を呈する。これは妊と同じ姿である。このように任は「ふくらむ」と「抱きかかえる」のイメージをもつと考えてよい。
かくて賃の図形的意匠も分かってくる。貝はお金や財貨と関係があることを示す限定符号。金でもって(代金を払って)人を当方に抱え込む状況を暗示させている。これが賃の図形的意匠である。図形的意匠はそのまま意味ではないが、上記の意味が十分こめられている。 

「陳」

白川静『常用字解』
「会意。阜(阝)は神が天に陟り降りするときに使う神の梯の形。その前に東(上下を括った橐ふくろの形)を置く形で、お供えを陳列する(ならべつらねる)の意味となる」

[考察]
字形から意味を読み取るのが白川漢字学説の方法である。阜(神の梯)+東(ふくろ)→梯の前でお供えを陳列するという意味を導く。
ここで疑問。神が天を上り下りする梯とは何であろうか。こんな空想的なものの前に袋を置くとはどういうことか。袋の中に供物が入っているのであろうか。なぜ梯の前に置くのか。疑問だらけである。
だいたい陳に「神の梯の前で供物を陳列する」という意味があるのだろうか。こんな意味はあり得ない。これは字形の解釈に過ぎない。図形的解釈をストレートに意味とするのは白川漢字学説の特徴である。
字形に意味があるというのは言語学に反する。意味は言葉に内在する概念である。聴覚記号である言葉を視覚記号に換えたのが文字である。意味は「言葉の意味」であって「文字の意味」ではない。字形から意味を読み取る白川漢字学説は逆立ちした文字学である。
意味は言葉の使われる文脈でしか分からない。具体的文脈での使い方が意味である。陳は次のような古典の文脈で使われている。
 原文:左右陳行 戒我師旅
 訓読:左右行を陳(つら)ね 我が師旅を戒む
 翻訳:左右に隊列を並べ わが軍団を引き締める――『詩経』大雅・常武
陳は列をなして敷き並べる(連ねる)という意味で使われている。これを古典漢語ではdien(呉音でヂン、漢音でチン)という。これを代替する視覚記号しとして陳が考案された。
陳は「阜+東」というきわめて舌足らず(情報不足)な図形である。これから意味を導くと何とでも解釈できよう。しかし恣意的な解釈に陥る危険がある。字形→意味の方向ではなく、意味→字形の方向に見る必要がある。意味は上記の通りである。なぜそんな意味をもつdienの表記としたのか。
東は土囊の図形である。これの用途は主として土木工事である。一方、阜は土を段々に積み上げた形で、盛り土・丘・山など、土と関係がある。このように見ると陳という図形の意匠(組み立てのデザイン)も見えてくる。すなわち土木工事で盛り土をする際に土囊を敷き並べる情景という意匠である。「阜+東」はきわめて舌足らずだが、意味から逆に図形を眺めると、このような意匠が浮かぶ。
敷き並べる仕方は▯-▯-▯-▯の形に列を作って並ぶはずである。だから陳列という語も生まれる。これは空間的なイメージだが、空間的イメージは時間的イメージにも転用されることが多い。時間を空間化して▯-▯-▯-▯の形に進んで行くこと考えると、これは時間の経過であるから、長い時が経つというイメージが生まれる。これが陳腐・新陳代謝の陳(久しい、古い)の使い方である。白川は「そのまま陳列しておくので、陳腐のように、“ふるい、ひさしい”の意味となる」と説明しているが、陳列したものが古くなるというのは必然性に欠ける。意味論的な転義の説明になっていない。

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