常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2017年04月

「都」

白川静『常用字解』
「形声。音符は者。者は曰(ᄇの中に神への祈りの文である祝詞を入れた形)の上に木の枝を重ね、その上に土をかけて作ったお土居(土の垣)で、外部からの侵入者に備えて作られた 。阝は邑で、城中に人がいる形であるから、集落、むらの意味となる。周囲にめぐらしたお土居で守られている大きな集落を都といい、“みやこ”の意味となる」

[考察]
者の解釈の疑問については759「者」で述べたが再引用する。
字形から意味を引き出すのが白川漢字学説の方法である。交叉させた木の枝+曰(祝詞)→お土居という意味を導く。字形の解剖にも意味の取り方にも疑問がある。祝詞は祈りをする口唱の言葉で、聴覚言語であるのに、なぜ器に入れるのか。この器の上に木の枝を重ねるとはどういうことか。これからなぜ「お土居」という意味が出てくるのか。また、「お土居」の意味から、なぜ「もろもろ」や「もの」の意味に転じるのか。すべて疑問である。字形から意味を求めると、図形的解釈と意味が混同され、あり得ない意味が生まれる。意味とは「言葉の意味」であって、字形に求めるべきではなく、言葉が使われる文脈に求めるべきである。(以上、759「者」の項)
都についての疑問もこれと同じ。なぜ「者(お土居)+邑(むら)」から「みやこ」の意味が出るのか。「むら」の意味であってもおかしくない。要するに意味の展開に必然性がない。
都に「周囲にめぐらしたお土居で守られている大きな集落」といった意味はあり得ない。意味は字形から出るのではなく、言葉の使われる文脈に求めるべきである。文脈における言葉の使い方が意味にほかならない。古典で都は次のような文脈で使われている。
①原文:孑孑干旟 在浚之都
 訓読:孑孑ケツケツたる干旟 浚の都に在り
 翻訳:ぽつんと立てた旗竿が 浚の町に現れた――『詩経』鄘風・干旄
②原文:皇父孔聖 作都于向
 訓読:皇父は孔はなはだ聖 都を向ショウに作る
 翻訳:皇父[人名]はとても賢く 向[地名]で都を作った――『詩経』小雅・十月之交

①は人々が集まる大きな町の意味、②は国の中心の町(みやこ)の意味で使われている。これを古典漢語ではtag(呉音でツ、漢音でト)という。これを代替する視覚記号しとして都が作られた。
都は「者(音・イメージ記号)+邑(限定符号)」と解析する。者については759「者」で述べたのでこれも再引用する。
者の字源については諸説紛々だが、煮の原字とする藤堂明保の説が妥当である。者は器(こんろの類)の上で薪を集めて燃やす情景を設定した図形と解釈できる。木の間に点々があるのは火が燃えている様子を表している。曰は容器の形である。この図形的意匠によって、「多くのものを一つの所に集める」というイメージを表すことができる。多くのものが集まれば、間隔が詰まり、密着した状態になるので、「くっつける」「くっつく」というイメージにも展開する。者のグループ(者・煮・暑・署・書・緒・諸・著・着・都・賭・箸・渚・猪・儲など)にはこのコアイメージが共通にある。(759「者」の項)
者は「多くのものを一つの所に集める」「一つの所に集中する」「一か所に定着する」「くっつく」などのイメージを表す記号である。邑は村・町など人が住む比較的大きな区域に関係があることを示す限定符号。限定符号は意味領域を指示するためのメタ記号である。したがって都は多くの人々が集中する居住地を暗示させる図形となっている。この意匠によって上の①②の意味をもつtagという言葉の表記とした。


 

「途」

白川静『常用字解』
「形声。音符は余。余は把手のついた大きな針の形。この針を呪具として使用し、土中に突き刺して地下にひそむ悪霊を取り除くことを除道という。除道を水路に行うことを涂、道路に行うことを途といい、涂・途は祓い清められた“みち”の意味となる」

[考察]
字形から意味を引き出すのが白川漢字学説の方法である。余(呪具の針)+辵→祓い清められた道という意味を導く。
871「除」では次のような疑問を述べた。
「叙」の項では余は膿を取り除く手術用の針だと言い、本項では土中に突き刺して悪霊を取り除く針だと言う。こんな針が存在するだろうか。また神が天地を上り下りする梯が存在するだろうか。その梯の前の地で針を刺して邪気を祓い清めるとはどういうことか。神がするのか、人がするのか。除がこんな意味を表すだろうか。いろいろな疑問が浮かぶ。(871「除の項)
除道は道を開いたり整えたりすることであって、「土中に突き刺して地下にひそむ悪霊を取り除く」という意味があるはずもない。また「除道を水路に行う」ことが涂だというが、水路とは川や溝のことであろう。「針を土中に突き刺して地下にひそむ悪霊を取り除く」ことを川で行うとはどういうことか。
途に「祓い清められた道」という意味があるだろうか。これは図形的解釈であろう。図形的解釈と意味を混同するのが白川漢字学説の全般的特徴である。
意味とは「言葉の意味」であって「字形の意味」ではない。字形から意味が出るのではなく、言葉の使われる文脈から出るものである。途の使われる文脈を古典に当たってみよう。
 原文:迂其途、而誘之以利。
 訓読:其の途を迂にして、之を誘ふに利を以てす。
 翻訳:道を迂回し、敵には利益で誘導する――『孫子』軍争
途は道、道筋、進路の意味で使われている。これを古典漢語ではdag(呉音でヅ、漢音でト)という。これを代替する視覚記号しとして途が考案された。
途は「余(音・イメージ記号)+辵(限定符号)」と解析する。余については871「除」、758「舎」などで既述しているが、もう一度振り返る。
余の原形は先端が㐃の形で下部に柄のつた道具である。土を削る鍬の類と考えてよい。これに八(左右に分ける符号)を添えたのが余である。でこぼこした土を農具(鍬の類)で平らにかき分けて均す情景を設定したのが余である。この図形的意匠によって、「横に平らに伸ばす」というイメージを表すことができる。このイメージは「平らに(段々と)押し伸ばす」「徐々に伸びて広がる」というイメージにも展開する(871「除」の項)。
余は「横に平らに伸ばす」「平らに押し伸ばす」というイメージを表す記号である。邪魔なものを押しのけて通りをよくする行為が除(のぞく)である。掃除の除である。辵は進行や歩行と関係があることを示す限定符号。したがって途は邪魔なものを除いて通行できるようにしたもの、つまり「みち」を暗示させる図形となっている。 

「徒」

白川静『常用字解』
「形声。もとの字は𨑒に作り、音符は土。説文に“𨑒は歩して行くなり”とあり、“徒歩、かち”の意味とする。土は社のもとの字であるから、その社に属する者を徒といい、“仲間、くみ、人々”の意味にも用いる」


[考察]
白川漢字学説は形声の説明原理がなく、会意的に説くのが特徴である。本項では最初の徒歩の場合は土からの説明がない。つまり会意的な説明がなされていない。しかし後段では、土は社のことで、社に属する者が徒であるという。前段と後段にどんな関係があるのか理解不能である。統一的な字源説とは言い難い。
だいたい徒に「社に属する者」という意味はない。字形から無理に引き出した意味である。図形的解釈と意味を混同している。
古典で徒がどんな意味で使われているかを見るのが先決である。
①原文:舍車而徒。
 訓読:車を舎(す)てて徒(かちありき)す。
 翻訳:車を捨てて徒歩で行く――『易経』賁
②原文:我徒我御 我師我旅
 訓読:我が徒我が御 我が師我が旅
 翻訳:わが兵隊 わが御者 わが軍団 我が旅団――『詩経』小雅・黍苗
③原文:非吾徒也。
 訓読:吾が徒に非ざるなり。
 翻訳:[彼は]私の仲間ではない――『論語』先進

①は乗り物に乗らないで歩いて行く意味。漢文では「かちありき」と読む習慣になっている。②は戦車に乗らないで歩く兵卒(足軽のようなもの)の意味、③は一緒に仕事をする仲間の意味に使われている。これを古典漢語ではdag(呉音でヅ、漢音でト)という。これを代替する視覚記号しとして徒が考案された。
徒は「土+彳+止」と分析できるが、「彳+止」は辵と同じである。辵は歩行・進行と関係があることを示す限定符号。したがって徒は「土(音・イメージ記号)+辵(限定符号)」と解析する。土は文字通りの意味、「つち」である。乗り物に乗らないで行くのは土を踏んで行くことである。これを徒というのである。日本語の「かち」に当たる。「かち」には歩兵という意味もある。これは漢語の徒と同じ。上の②は歩兵の意味である。漢語では意味がさらに展開する。一緒に仕事をする者(仲間)という意味に展開する。一緒に勉強する仲間という意味も生まれる。これが生徒の徒。一方、乗り物に乗らない(馬も車もない)ことから、道具などを持たない、何も持たないという意味も生まれる。これが徒手空拳の徒。 また、何もすることがない(むなしい、むだ)という意味も生まれる。これが徒労、徒然(つれづれ)の徒である。
土を踏んで行くことから、さまざまな意味が生まれる。なぜこのような意味が生まれるかを論理的に説明しないと、漢字の理解は深まらない。

「吐」

白川静『常用字解』
「形声。音符は土。説文に“写そそぐなり”とあり、吐瀉するの意味とする。“はく、はきだす、だす、すてる”の意味に用いる。吐は吐き出すときの音を写した擬声的な字であろう」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなく会意的に説くのが特徴であるが、本項では土から会意的に説明できず、結局擬音語とした。吐くときに「ト」という音を出すだろうか。
形声の説明原理とは言葉の深層構造に掘り下げ、語源的に意味を説明する方法である。既に古人はこの方法から、「土は吐なり」「社は吐なり」と言い、土・吐・社を同源の語として捉えている。これはどういうことかを検討しよう。756「社」では次のように述べた。
社は土地の神、また土地の神を祭るの意味で使われている。これを古典漢語ではdhiăg(呉音でジャ、漢音でシャ)という。これを表記する視覚記号が社である。古人は「社は土なり」「社は吐なり」という語源意識をもっていた。社は大地の生産力から発想された言葉である。これは社の語源である。次に字源的に社の成立を見る。社は「土(音・イメージ記号)+示(限定符号)」と解析する。土は盛り上がった土を描いた図形である。土には「中身が詰まって盛り上がる」というイメージがある。示は神の意味領域に限定する符号。社は土を盛り上げて土地の神を祭る情景を設定した図形である。これで上記の意味をもつdhiăgを表記する。(以上、756「社」の項)
土はつち、大地の意味であるが、「中身が詰まって盛り上がる」というコアイメージがある。中身が詰まると段々とふくれて盛り上がってくる。盛り上がる状況が極限に達すると、内部から外部に出て行こうとする。これが「吐き出す」という意味につながる。「中身が詰まる」→「盛り上がってふくれる」→「噴き出す」というイメージ展開は噴にも見られる。
古人が土・吐・社を同源の語と捉えたのは大地の生産力に着目したものである。 大地からさまざまなもの(主として植物)が生まれてくる。この生産力を大地から吐き出されるものと想像したのである。このような旺盛な生産力に感謝し、畏敬の念を持って、土地を神格化して祭る。これが社である。このような考えから土・吐・社の同源意識が古代から芽生えたと考えられる。
もちろん吐は「植物を地中から吐き出す」という意味ではない。吐は次のように使われている。
 原文:柔則茹之 剛則吐之
 訓読:柔なれば則ち之を茹(くら)へ 剛なれば則ち之を吐け
 翻訳:[食べ物が]柔らかいなら食べなさい、固ければ吐きなさい――『詩経』大雅・烝民
吐は口から物をはきだすという意味で使われている。これを古典漢語ではt'ag(呉音・漢音でト )という。これを代替する視覚記号しとして吐が考案された。
土は「中身が詰まって盛り上がる」というイメージがある。したがって吐は、口に入れた物がいっぱいに詰まり、詰まったものが上にせりあがって、口からはきだす状況を暗示させる。 この意匠によって「はきだす」を意味するt'agの表記とした。
「はきだす」のは意図的な行為である。胃に入った食べ物を、何らかの原因で吐き気が生じて、逆方向に口から出すことがあるが、これは「もどす」という行為である。古典漢語では「もどす」ことを嘔(もとは欧)という。嘔吐という熟語で使われるが、実は嘔と吐は意味が違うわけである。 

「斗」

白川静『常用字解』
「象形。柄のついた柄杓の形。升は勺(ひしゃく)でものを挹む形で、その挹んだ分量の名となった。斗は容量の単位で、一升の十倍をいう。一斗の量をはかる“斗枡、ます” の意味にも用いる。北斗七星は、その七つの星の配置の形が斗の形に似ているので、北斗七星と名づけられた」

[考察]
斗の意味は分量の名→ます→北斗七星と転じたという。
最古の古典では次の用例がある。
①原文:酌以大斗 以祈黃耇
 訓読:酌むに大斗を以てし 以て黄耇コウコウを祈る
 翻訳:大きなひしゃくで酒を酌み どうか長生きをと祈る――『詩経』大雅・行葦
②原文:維北有斗 西柄之揭
 訓読:維(こ)れ北に斗有り 西柄之(こ)れ掲ぐ
 翻訳:北の空にはひしゃく星 西の方に柄を上げる――『詩経』小雅・大東 
斗を星の名に使うのは紀元前11世紀頃には既に現れていた。
斗の意味は、ひしゃく→北斗七星→ます→容量の単位という展開が考えられる。

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