常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2017年04月

「電」

白川静『常用字解』
「会意。雨と申とを組み合わせた形。下部はもの申の形である。申は稲妻の形。申に雲・雷など気象を表す字につける雨をつけて電とし、“いなずま、いなびかり、いなびかりのようにはやい” の意味に用いる」

[考察]
962「神」の項では申を音符としている。神の上古音はdien、電の上古音はdenと推定されている。だから電も形声としてさしつかえない。
電は白川の言う通り「雨+申」に分析できる。申は甲骨文字では循環的序数詞である十二支の第九位を表す記号として用いられている。申の字源は古くから稲妻の象形文字とされている。これは定説となっている。しかし甲骨文字では稲妻という実体ではなく、その形態的特徴である「長く伸びる」というイメージが利用された(詳しいことは954「申」を見よ)。甲骨文字以後になって申は実体に着目されるようになり、二つのイメージが現れる。一つは稲妻という現象そのもの、もう一つは神格化である。
稲妻そのものを言語としてdenといようになった(申の音thienではないが、類似している)。これを表記するために申に限定符号の雨(気象と関係があることを示すメタ記号)を添えて電という図形が考案された。
最古の古典の一つである『詩経』(紀元前11世紀頃)に次の用例が見える。
 原文:爗爗震電
 訓読:爗爗ヨウヨウとして電震ふ
 翻訳:稲妻がぴかっと光って震える――『詩経』小雅・十月之交
稲妻の意味が二千年以上も続く。近代になって西洋科学の登場後electricityの訳語として電が用いられるようになった。

 

「殿」

白川静『常用字解』
「会意。Aとんと殳とを組み合わせた形。Aは丌(こしかけ)に腰かけている形で、臀の部分を強調した字であり、臀(しり)のもとの字である。殳は杖のように長いほこを持つ形であるから、殿は臀たたきの俗を示す字であろう」
A=[尸+丌+几](縦に合わせた形)

[考察]
Aはトンの音だから殿と音のつながりがある。だから殿は形声のはず。形声の説明原理がなく会意的に説くのが白川漢字学説の特徴である。A(しり)+殳(ほこ)→尻をたたくという意味を導く。
いったい「臀たたきの俗」とは何のことか。罰として尻をたたくことはあるだろう。これをわざわざ習俗として特別視するのは奇妙である。
殿に「尻をたたく」という意味があるだろうか。こんな意味はない。これは図形的解釈である。図形的解釈と意味は区別すべきである。白川漢字学説はこれを混同するのが全般的特徴である。
殿は古典でどんな意味で使われているかを見るのが先決である。最も古い用法から順に見る。
①原文:樂只君子 殿天子之邦
 訓読:楽しいかな君子 天子の邦を殿デン
 翻訳:喜びあふれる君子は 天子の国の重鎮――『詩経』小雅・采菽
②原文:孟之反不伐、奔而殿。
 訓読:孟之反伐ほこらず、奔りて殿す。
 翻訳:孟之反[人名]は功を誇らず、軍が敗走した時しんがりについた――『論語』雍也
③原文:王乃牽而上殿。
 訓読:王乃ち牽きて殿に上らしむ。
 翻訳:王は[荘子を]案内して宮殿に上らせた――『荘子』説剣

①の文献の注釈では「殿は鎮なり」とある。重鎮の鎮と似た意味で、殿はずっしりと重みをかけて押さえ、安定させるという意味で使われている。②は軍の最後尾で押さえとなる意味、またその部隊(しんがり)の意味。③は大きな建物の意味。これらの意味をもつ古典漢語をduen(呉音でデン、漢音でテン)という。これを代替する視覚記号しとして殿が考案された。
殿は「A(トン)(音・イメージ記号)+殳(限定符号)」と解析する。Aは「尸(しり)+丌(台)+几(こしかけ)」を合わせて、尻を台などに載せる情景を示す図形。これは臀部の臀(しり)の原字である。ただし実体に重点があるのではなく形態や機能に重点がある。臀部は胴体の最後尾にあり、腰を下ろすと重みがかかる。だからAは「底部にずっしりと重みがかかる」というイメージを表す記号となる。殳は動作や行為に関係づける限定符号。したがって殿は底部にずっしりと重みをかけて押さえる状況を暗示させる図形。この意匠によって上の①の意味をもつduenを表記する。
意味はコアイメージによって展開する。「底部にずっしりと重みをかける」というコアイメージから、②の意味に展開するのは見やすい。③の宮殿の意味もやはりこのコアイメージによって実現される。底部に重みがかかってずっしりと安定して立つ建物が宮殿の殿の意味である。①→②→③への意味展開はコアイメージという概念によってスムーズに理解できる。
白川漢字学説には形声の説明原理がない。コアイメージという概念もない。その結果として合理的な転義の説明ができない。上の文章に続けて「殿舎・殿堂・御殿・宮殿のように、“邸宅、やしき”の意味に用いる」と述べているだけである。「臀たたきの俗」との関連性が全く分からない。

「伝」
正字(旧字体)は「傳」である。

白川静『常用字解』
「会意。人と專(専)とを組み合わせた形。專は橐ふくろ(叀)の中に入れた物を手(寸)で摶ってまるい形にしたものをいい、これを人が背負う形が傳で、背負って運ぶ、他に運び伝えるの意味となる」

[考察]
專はセンの音だからデンの音とつながりがある。だから形声のはず。団(團)と転(轉)では形声としている。
白川漢字学説には形声の説明原理がない。だからすべて会意的に説くのが特徴である。本項では人+專(まるい袋)→人が袋を背負う→背負って運ぶという意味を導く。
背負うのはただの袋をではなく、「袋の中に物を入れて打って丸くした袋」だという。これはいったい何のことか。よく分からない。また、伝に「(袋を)背負って運ぶ」という意味があるだろうか。そんな意味はあり得ない。字形から意味を求めると恣意的な解釈に陥りがちである。結果としてあり得ない意味が出てくる。
意味とは「言葉の意味」であって字形から出るものではない。言葉の使われる文脈から出るものである。古典における傳の用例を見てみよう。 
①原文:晉侯以傳召伯宗。
 訓読:晋侯伝を以て伯宗を召す。 
 翻訳:晋侯は駅伝[乗り継ぎ馬]で伯宗を召した――『春秋左氏伝』成公五年
②原文:傳不習乎。
 訓読:習はざるを伝へしか。
 翻訳:習っていない事柄を人に伝えてはいないか――『論語』学而

①はリレー式に(中継を経て)人や物を送るという意味、②は次々に受け渡すという意味で使われている。これを古典漢語ではdiuan(呉音でデン、漢音でテン)という。これを代替する視覚記号しとして傳が考案された。
傳は「專(音・イメージ記号)+人(限定符号)」と解析する。專については1350「転」で述べているが、もう一度振り返る。
專は「叀セン(音・イメージ記号)+寸(限定符号)」と解析する。叀は紡錘を描いた図形である。『説文解字』の一説として「紡専なり」がある。しかし実体に重点があるのではなく形態と機能に重点がある。紡錘は下に陶製の丸い煉瓦をぶら下げ、それを回転させて紡いだ糸を巻き取るものである。形態的には「丸く回る」というイメージ、機能的には「一つにまとまる」というイメージがある。寸は手の動作に限定する符号である。專は紡錘を回して糸を作る情景を設定した図形だが、そんな意味を表すのではなく、この図形的意匠によって「丸く回る」「いくつかのものを一つにまとめる」というイメージを暗示させるのである。(1230「団」の項)
專は「丸く回る」というイメージを表す記号である。図示すると〇の形、あるいは↺の形。轉では「円を描くようにくるくると回る」という意味が実現された。これは回転の転。しかし移転の転は「くるくる回る」という意味ではない。〇の形を連鎖させると↺↺↺・・・の形に転がっていくというイメージにも転化する。転々と移動するという意味に転じる。これが移転の転である。傳はまさにこのイメージである。「↺↺↺・・・の形に転々と移る」というイメージが傳のコアをなす。上の①は駅伝の伝と同じ。駅伝は↺↺↺・・・の形に、中継点を継ぎながら、次々に 人や物を送るシステムである。リレー式に送るというのが伝の意味である。これから②の意味に展開するのは容易に分かる。

「田」

白川静『常用字解』
「象形。区画された田の形。“た、たつくる”の意味に用いる」

[考察]
田の形だから「た」の意味というのが白川漢字学説。つまり字形から意味を引き出すのが白川漢字学説の方法である。
しかし字形は見ようと思えば何にでも見える。田は「た」の意味と分かっているから、逆に田を田の形としただけであろう。
田が「た」の意味と推測できるのはそれが使われている文脈から判断するのである。あるいは古来の字書に田は「た」の意味と書いてあるからでもある。何もないところに、いきなり「田」の字は何の形 かと問われても答えようがない。田は「た」の意味だとあらかじめ分かっているから「田」は田を描いた象形文字だろうと推測するのである。
漢字を「字形→意味」の方向に見ると間違うことが多い。「田」の場合は偶然字形と意味が合致しただけである。合致しない場合がむしろ多い。
漢字は「意味→字形」の方向に見るのが正しい見方である。「字形→意味」の方向だと言葉が欠落するのが重大な欠点である。「意味→字形」の方向は言葉という視点に立っている。意味とは「言葉の意味」だからである。
古典漢語では「た」のことをden(呉音でデン、漢音でテン)という。これは聴覚記号である。これを視覚記号に変換する際に「田」の図形が考案された。このように漢字を説くのが歴史的であり、論理的である。 

「転」
正字(旧字体)は「轉」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は專(専)。專は橐ふくろ(叀)の中に物を入れ、手(寸)で摶って固めることをいい、まるめるの意味がある。まるめたものはまわりやすく、ころびやすいものであるから、車輪のまわることを轉という」

[考察]
專に「袋の中に物を入れ、手で打って固める」という意味があるだろうか。そんな意味はない。また、手で打って固めることがなぜ「まるめる」の意味になるのか、意味展開が不自然である。また、転に「車輪が回る」という意味があるだろうか。そんな意味はあるまい。「車輪」に限定されない。
古典における轉の用例を見てみよう。 
 原文:我心匪石 不可轉也
 訓読:我が心は石に匪(あら)ず 転(まろば)すべからず
 翻訳:私の心は石ではないから (勝手に)ころがすことはできぬ――『詩経』邶風・柏舟
轉は円を描くようにくるくる回るという意味で使われている。これを古典漢語ではtiuan(呉音・漢音でテン)という。これを代替する視覚記号しとして轉が考案された。
轉は「專(音・イメージ記号)+車(限定符号)」と解析する。專については1075「専」、1230「団」で述べているが、もう一度振り返る。
專は「叀セン(音・イメージ記号)+寸(限定符号)」と解析する。叀は紡錘を描いた図形である。『説文解字』の一説として「紡専なり」がある。しかし実体に重点があるのではなく形態と機能に重点がある。紡錘は下に陶製の丸い煉瓦をぶら下げ、それを回転させて紡いだ糸を巻き取るものである。形態的には「丸く回る」というイメージ、機能的には「一つにまとまる」というイメージがある。寸は手の動作に限定する符号である。專は紡錘を回して糸を作る情景を設定した図形だが、そんな意味を表すのではなく、この図形的意匠によって「丸く回る」「いくつかのものを一つにまとめる」というイメージを暗示させるのである。(1230「団」の項)
專は「丸く回る」というイメージを表す記号である。図示すると〇の形、あるいは↺の形。車は車に関係があることを示す限定符号。限定符号には三つの働きがある。カテゴリーを示す働き。意味領域を指示する働き。そのほかに図形的意匠を作るための場面設定の働き。これについては誰も言ったことがない。しかしこの働きを見逃すと支障が起こる。限定符号を意味として読み込む危険があるからだ。三番目の限定符号は意味外のメタ記号なのである。轉では車と関わる場面が設定され、「專」に車を添えて、車輪が〇や↺の形に回る情景が作り出された。これが轉の図形的意匠である。しかし車は意味外のメタ記号であって、tiuanという言葉の意味には入らない。車は轉の意味素ではない。要するに轉は上記の意味であって、車とは関係がないのである。限定符号に囚われると「車輪が回る」という意味になってしまうが、こんな意味には使われないのである。意味とは文脈における言葉の使い方にほかならない。

↑このページのトップヘ