常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2017年05月

「突」
正字(旧字体)は「突」である。

白川静『常用字解』
「会意。犬は犠牲として供える犬。穴はこの字の場合は竈の穴(焚口)で、そこに犠牲の犬を供えて祀ることをいう。竈から煙を出すための竈突をいう。それで“つきでる、つく”の意味となる」

[考察]
突は「そこ(竈)に犠牲の犬を供えて祀る」の意味としながら、「竈から煙を出すための竈突」の意味とし、そこから「つきでる」の意味になったという。竈で犬を供えて祀ることと、煙突と何の関係があるのか。
「穴+犬」という舌足らず(情報不足)な図形から、「竈に犠牲の犬を供えて祀る」という意味を導くこと自体が突飛である。字形から出発すると何とでも解釈できる。言葉から出発しないと恣意的な解釈になりがちである。
言葉から出発し、意味を調べ、その後で字源を検討するのが正しい漢字理解の筋道である。突は古典に次の用例がある。
①原文:彘突出於溝中。
 訓読:彘、溝中より突出す。
 翻訳:豚が溝の中か突き出てきた――『韓非子』外儲説右下
②原文:未幾見兮 突而弁兮
 訓読:幾(いうば)くもなくして見れば 突として弁せり
 翻訳:しばらく会わないうちに あっという間に冠姿――『詩経』斉風・甫田

①は頭や先端が急に突き出る意味、②はある事態が急に出てくるさま(だしぬけ)の意味で使われている。これを古典漢語ではduət(呉音でドチ、漢音トツ)という。これを代替する視覚記号しとして突が考案された。
突は「穴+犬」と分析する。ありにも単純で情報不足な図形である。上記の意味をもつ言葉の表記だから、それに合うような解釈をすると、穴から犬が急に飛び出す情景と解釈できそうである。これなら①と②にうまく合う。穴も犬も意味とは何の関係もない。ただ図形的意匠を作るための場面設定に利用されただけである。
 

「凸」

白川静『常用字解』
「象形。中央が上に突出している形。反対に中央が下にくぼんだ形は凹。合わせて凹凸(でこぼこ)という。ともに図形のような文字である」

[考察]
象形という規定は変である。象形とは何らかの実体、具体物をかたどった文字のことである。凸はただの図形であって「何」という実体はない。強いて言うなら指事だが、むしろ「象徴的符号」という新しい概念を設けたほうがよい。漢字の成り立ちは六書(象形・指事・形声・会意・転注・仮借)にこだわる必要はない。
字形に意味があるというのが白川漢字学説の見方であるが、「字形が意味を表す」というのは真実ではない。字形から意味を引き出すことはできない。字形は言葉を表記するだけである。
ただ例外がある。凹と凸は図形そのものに意味がある。「へこむ」と「突き出る」の意味がその形で表されている。これ以外の漢字は図形そのが意味を表していない。上と下は図形から「うえ」と「した」の意味を読み取ることはできない。推定はされるが「うえ」と「した」に取る必然性がない。形に意味があるのは凹凸ぐらいしかない。

「読」
正字(旧字体)は「讀」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は𧶠。孟子・万章上に“其の詩を頌し、其の書を讀む” とあり、神への祈りの文である祝詞を読むの意味である」

[考察」
白川漢字学説には形声の説明原理がなく会意的に説くのが特徴であるが、本項では𧶠から会意的に説明できず、字源を放棄している。
『孟子』にある「書を読む」を引用して、讀とは「神への祈りの文である祝詞を読む」という意味だというが、書とは『書経』のことであって祝詞ではない。
古典における讀の用例を見てみる。
①原文:中冓之言 不可讀也
 訓読:中冓の言は 読むべからず
 翻訳:寝屋の睦言は 声を出して読み上げてはいけない――『詩経』鄘風・牆有茨
②原文:何必讀書然後爲學。
 訓読:何ぞ必ずしも書を読みて然る後に学を為さんや。
 翻訳:本を読むだけが学問と考える必要はない――『論語』先進

①は言葉をつなげて文をよむ意味、②は文字で書いた文章や本をよむ意味で使われている。これを古典漢語ではduk(呉音でドク、漢音でトク)という。これを代替する視覚記号しとして讀が考案された。
讀は「𧶠イク(音・イメージ記号)+言(限定符号)」と解析する。𧶠については1168「続」で述べたのでもう一度振り返ってみる。
𧶠を分析すると「A+貝」となる(A=[圥+囧]を縦に合わせた字)。Aを分析すると「圥+囧」、圥を分析すると「屮+六」となる。六→圥→A→𧶠→續と発展して造形された。Aは親睦の睦の異体字(古文の字体)である。音は、六(ロク)、圥(ロク)、A(ボク)、𧶠(イク)、續(ゾク)と変わるが、変わらないのはコアイメージである。どんなイメージか。六は陸の原字で、「盛り上がる」というイメージがあるが(「六」で詳述)、もう一つのイメージは「次々につながる、続く」というイメージである。図示すると▯-▯-▯-▯-の形である。陸続という言葉によく現れている。圥は「六(音・イメージ記号)+屮(草に関わる限定符号)」を合わせて、陸の右側の坴リクを構成し、草が次々に連なる土地、あるいは次々に続く陸地を暗示させる。Aは「圥ロク(音・イメージ記号)+囧(イメージ補助記号)」を合わせたもの。圥は「次々に続く」のイメージから「次々に寄り集まる」「集まって次々に続く」というイメージに転化する。囧は明かり取りの窓の形で、「明るい」というイメージを添える記号(明の異体字「朙」に含まれている)。Aは人が寄り集まって明るい雰囲気を作る情景を設定した図形。親睦の睦(むつむ、むつまじい)の意味を表す。𧶠は「Aボク(音・イメージ記号)+貝(限定符号)」と解析する。Aは「次々に寄り集まる」というイメージがある。𧶠は商品を集めて取り引きする状況を暗示させる図形。鬻イク(ひさぐ)と同音同義である。「ひさぐ」(売る、あきなう)という行為は、商品がaのもとに集まり、a→b→cという具合に流通していく。「流通する、次々に通る」というイメージが𧶠(=鬻)の根底にある。(以上、1168「続」の項)
字形の展開が半端ではないが、六から出発して最後に續・讀が生まれた。そしてこれらには「次々に通る」「▯-▯-▯-▯の形に次々に続く」というイメージが共通する。かくて讀は言葉を一つ一つつないで通す状況を示す図形と解釈できる。この図形的意匠によって上の①②の意味をもつdukを表記するのである。
 

「独」
正字(旧字体)は「獨」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は蜀。蜀は牡の獣の形で、虫の部分はその性器の形。牡の獣は群れを離れていることが多いので、獨は一匹の獣の意味から、人に移して“ひとり”の意味に用いる」

[考察」
字形の解釈にも意味の取り方にも疑問がある。獨に「一匹の獣」という意味はない。蜀の解釈の疑問については948「触」、1166「属」で述べたが、もう一度振り返る。
蜀については『説文解字』に「葵中の蚕なり」とあり、『詩経』の「蜎蜎者蜀」という詩句を引用している。現在の『詩経』のテキストでは蠋となっている。蠋はアオムシやイモムシのことで、蝶や蛾の幼虫である。この虫はある種の木の葉にとりついて、食べ終わるまで離れない習性がある。これから「一所にくっついて離れない」というイメージが捉えられ、漢字の造形に使われる。したがって觸は角のある獣が角を一点にくっつけて(角で一点を突いて)ふれる情景を設定した図形である。(以上、948「触」の項)
このように蜀は蠋の原字である。しかし実体に重点がるのではなく形態や機能に重点がある。生態的特徴から蜀は「 一所にくっついて離れない」というイメージを表す記号となる。
「くっつく」とはA→BがA・Bとなり、AとBが一体化することでもある。これは二つに分かれていない状態、一体化・未分化の状態である。二つのものが一つになった(偶するものがない)状態が「ひとつ」「ひとり」の意味を実現する。これを古典漢語ではduk(呉音でドク、漢音でトク)という。古典では次の用例がある。
 原文:念我獨兮 憂心京京
 訓読:我の独りなるを念へば 憂心京京たり
 翻訳:ひとりなる己を思えば 悲しみはますます募る――『詩経』小雅・正月
獨はひとり・ひとつの意味で使われている。
次に字源を見る。獨は「蜀(音・イメージ記号)+犬(限定符号)」と解析する。蜀は上記の通り「一所にくっついて離れない」というイメージを示す記号。犬はいぬに関係のあることを示す限定符号。限定符号の役割は言葉の意味領域を指定するほかに、図形的意匠の場面設定の働きがある。犬に関わる場面が設定され、犬が一つの場所(持ち場)にくっついて離れないといった情景が設定される。これは「くっついて離れない」というイメージが現実の具体的な状況にあることを示し、この図形的意匠によって「他に連れがなくただひとつ」という事態を表現しょうとするのである。犬は比喩に過ぎない。犬の習性を利用したものである。

「毒」

白川静『常用字解』
「象形。多くの髪飾りをつけて祭りに奉仕する婦人の形。多くの髪飾りを重ねることを毒といい、“てあつい”の意味となる」

[考察]
毒が象形文字とは突飛な説である。明らかに「生+母(あるいは毋)」からできている。毒が「多くの髪飾りを重ねる」の意味とするのもおかしい。こんな意味はあり得ない。さらに、なぜこれから「手厚い」の意味になるかも分からない。
古典における毒の用例を見よう。
 原文:既生既育 比予于毒
 訓読:既に生き既に育イクして 予を毒に比す
 翻訳:なりわいができた今になって 貴方は私を毒物扱いなのね――『詩経』邶風・谷風
これは捨てられた女の作った歌の一節。苦労して生活を共にしてきたのに、愛人ができた夫に捨てられ、夫が自分を毒物のように見ているということである。この詩以外でも『詩経』では毒という言葉が出ており、毒物、害する、ひどい苦痛の意味で使われている。
毒は「生+母」となっている字体と、「生+毋」となっている字体がある。中国では前者、日本では後者が使われている。実は二つは同じである。毋は母から分化した字である。母はもちろん「はは」の意味であるが、母という言葉の根源には「無」「暗い」というイメージがあることは155「悔」、156「海」で述べた。母の字の二点を一線に変えたのが毋であり、母のコアイメージである「無い」を表すのである。
生は生命、毋は「無い」であり、「生+毋」によって「生命を無くするもの」というイメージを暗示させる図形が毒である。
 

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