常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2017年07月

「賓」
正字(旧字体)は「賓」である。

白川静『常用字解』
「会意。宀と万と貝を組み合わせた形。宀は祖先を祭る廟の屋根の形。万は犠牲の動物の後ろ足の形。廟の中に犠牲の後ろ足と呪器としての貝とを供えて祭り、神を迎える儀礼を賓といい、もと廟の中に迎える神、客神(他から来た異族の神)の意味であった」

[考察]
字形の解剖にも意味の取り方にも疑問がある。宀はなぜ廟の屋根に限定できるのか。万はなぜ犠牲の後ろ足なのか。なぜ動物の後ろ足が供え物になるのか。普通は動物の全形(肢体の完全にそろったもの)が用いられた。また「宀+万+貝」で、なぜ「神を迎える儀礼」という意味になるのか。これからなぜ「廟の中に迎える神、客神(他から来た異族の神)」という意味になるのか。疑問だらけである。
字形から意味を引き出すのが白川漢字学説の方法であるが、字形だけを相手にするから恣意的解釈になりがちである。また図形的解釈をストレートに意味とするから、あり得ない意味が出てくる。
賓の古典における用例を見てみよう。 
 原文:賓之初筵 左右秩秩
 訓読:賓の初めて筵エンする 左右秩秩 たり
 翻訳:客人の酒席に就く始めは 左右に整然と居流れる――『詩経』小雅・ 賓之初筵
賓は招かれて主人のそばに寄り添う客(主人とペアになる客)の意味で使われている。これを古典漢語ではpien(呉音・漢音でヒン)という。これを代替する視覚記号しとして賓が考案された。
客はよそからやって来て一時的に足をとめる客の意味で、お客(visitor)の意味のほか、他郷にやってくる人(旅人)の意味にもなる。賓はこれとは違い、招かれて大切にもてなされる客(guest)、主人と一対一に並ぶ客である。
賓の語源について、藤堂明保は、比のグループ、必のグループ、頻のグループ、また匹・畢・弼・鼻などとも同源で、「二つくっつく」という基本義があるとしている(『漢字語源辞典』)。
濱(浜)は水と陸がすれすれに接した所の意味である(1672「浜」を見よ)。これは賓に「二つくっつく」「すれすれまで近づく、接する」というイメージがあるからである。このイメージから主人のそばについて一対をなす客人をpien(賓)というのである。白川は309「客」で「客は廟の中に降下し格いたる神で、他から迎えた神(客神という)である」と述べており、賓と客を同一視している。言葉という視点が欠如しているからこんなことになる。
次に字源の問題。甲骨文字では「宀(いえ)+兀(ひと)」また「宀(いえ)+兀(ひと)+止(あし)」と分析できる。金文と古文では「宀(いえ)+兀または元(ひと)+貝(財貨)」となっている。これらは人がみやげものを持って家を訪れるといった情景を想定した図形になっている。これ以上の情報は含まれていない。篆文と楷書では「宀」と「貝」の間が崩れていてはっきりしない。
字形から意味を引き出すのは正しくない。字形は解釈しようと思えば何とでも解釈できる。逆に意味から字形を見るべきである。意味は言葉が使われる文脈から判断し把捉できる。

 

「貧」

白川静『常用字解』
「会意。貝は子安貝の形で、非常に貴重なもので財産とみなされた。その貝を分けることを貧といい、財産を分けて乏しくなることをいう」

[考察]
分(piuən、biuən)と貧(biən)は音のつながりがある。だから形声である。白川漢字学説には形声の説明原理がなく会意的に説くのが特徴で、本項はあえて会意としている。また字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。貝(子安貝、貴重な財産)+分(分ける)→その(貴重な財産である)貝を分ける→財産を分けて乏しくなるという意味を導く。
意味とは「言葉の意味」であって、字形から出るものではない。言葉の使われる文脈から出るものである。言葉という視点から、言葉がどのように使われているかを考えるのが先である。古典における用例を見る。
 原文:自我徂爾 三歳食貧
 訓読:我爾に徂(ゆ)きし自(よ)り 三歳食貧し
 翻訳:私がお前に嫁いでから 三年間食が貧しかった――『詩経』衛風・氓
貧は物(財産・物資・金銭など)が乏しい意味で使われている。
貧は「分(音・イメージ記号)+貝(限定符号)」と解析する。分は「二つに分ける」というイメージがある。これは「ばらばらに分散する」というイメージに展開する。ばらばらになると形が小さくなり、数量が少なくなる。分が分数の分や、小数の単位に使われるのは、このイメージ展開があるからである。貝は財貨や貨幣と関係があることを示す限定符号である。したがって貧は財産や貨幣が少なくなる状況を示す図形である。この意匠によって上記の意味をもつbiən(呉音でビン、漢音でヒン)という古典漢語を表記する。
漢字は「字形→意味」の方向に見るべきではなく、「意味→字形」の方向に見るべきである。これが歴史的かつ論理的に正しい漢字の見方である。 

「浜」
正字(旧字体)は「濱」である。 

白川静『常用字解』
「形声。音符は賓(賓)。賓は宀と万と貝とを組み合わせた形で、祖先を祭る廟(宀)の中に、犠牲の動物の後ろ足(万)と呪器としての貝とを供えて祭り、神を迎える儀礼をいう。水ぎわでおこなう神を迎える儀礼を濱といい、“みぎわ、はま”の意味に用いる」 

[考察]
字形の解剖にも意味の解釈にも疑問がある。万が犠牲の動物の後ろ足というが、なぜ後ろ足なのか。こんなものを犠牲として供えることは証拠も何もない。犠牲として供えるものは全形(肢体の完全に備わった動物)であろう。また貝がなぜ呪器なのか。「宀+万+貝」で、なぜ「神を迎える儀礼」の意味になるのか、また濱がなぜ「水ぎわでおこなう神を迎える儀礼」の意味になるのか。こんな意味が濱にあるのか。あり得ない。
字形から意味を引き出すのが白川漢字学説の方法である。言葉を無視するから、しばしばあり得ない意味が出てくる。図形的解釈と意味を混同するのは白川漢字学説の全般的特徴である。
意味とは「言葉の意味」であって、言葉を無視しては意味を捉えることはできない。意味は言葉の使われる文脈からしか出てこない。濱の古典における用例を見てみよう。 
 原文:于以采蘋 南澗之濱
 訓読:于(ここ)に以て蘋を采る 南澗 の浜に
 翻訳:浮き草摘みましょう 南の谷の水辺で――『詩経』召南・采蘋
濱は水辺の意味で使われてる。これを古典漢語ではpien(呉音・漢音でヒン)という。これを代替する視覚記号しとして濱が考案された。
濱は「賓(音・イメージ記号)+水(限定符号)」と解析する。賓については1574「賓」で詳述するが、結論だけ先取りすると、主人のそばにくっつくお客(主人とペアになる客)が賓で、賓は「すれすれに近づく」というイメージがある。だから水と陸がすれすれに接近している所(水辺、水際)が濱である。
 

「品」

白川静『常用字解』
「会意。口はㅂで、祝詞を入れる器の形。ㅂを多く並べ、祝詞を唱えて多くの祈りを合わせて行うことを品といい、“しな、しなもの、もろもろ、たぐい、わかつ、しわけ、かず”などの意味に用いる」

[考察]
字形の解釈にも意味の取り方にも疑問がある。祝詞とは口で唱える祈りの文句で、いわば聴覚言語である。これを器に入れるとはどういうことか。これから祈る文句を視覚言語(すなわち文字)に書き写して器に入れるのか。そのためには書写材料が必要である。紙のない時代であるから、帛(きぬ)や簡(竹簡・木簡)を用いたのか。それを器に入れるのか。祈りの文句は内容によっては量が多くなるはず。たくさんの木簡などが器に入るだろうか。これだけでも不思議であるが、祈るためになぜ祝詞を入れた器が必要なのか、これが稀代である。
品の意味を「祝詞を唱えて多くの祈りを合わせて行う」とするが、こんな意味が品にあるはずもない。さらに「祝詞を唱えて多くの祈りを合わせて行う」とはどういうことか。多くの祈りを一度に行うということか。「多くの祈り」とは何のことか。よく分からない。
さらに「祝詞を唱えて多くの祈りを合わせて行う」ことから、なぜ「しな」という意味になるのか。これも全く分からない。意味展開に必然性があるとは思えない。
祝詞説は白川漢字学説の根幹であるが、矛盾を含み、理解するのが難しいと言わざるをえない。
古典における品の用例を見る。
①原文:厥貢惟金三品。
 訓読:厥(そ)の貢は惟(こ)れ金三品。
 翻訳:貢ぎ物は金属の三つのしな[金・銀・銅]である――『書経』禹貢
②原文:田獲三品。
 訓読:田(かり)して三品を獲たり。
 翻訳:狩りをして三つの等級の獲物を得る――『易経』巽

①はしなものの意味、また、しなものを数える助数詞である。 ②はランク付けされたもの(等級、種類)の意味。動詞としてランク付けする(品定めする)という意味もある。これを古典漢語ではp'iəm(呉音でホム、漢音でヒム)という。これを代替する視覚記号しとして品が考案された。
品は口を三つ重ねた図形だが、口は「くち」(ことば)でもよいし、何らかの物と考えてもよい。ともかく重なるように多いものを暗示させている。図形から引き出せる情報はこれだけである。非常に舌足らず(情報不足)な図形である。
さまざまに性質の違うもの(しなもの)をp'iəmというのである。またそれは性質が違うがゆえにランク付けのできるものである。古典漢語では漠然として特定しないものは物ブツというが、性質がさまざまでランク付けを予想するものは品ヒンというのである。また、人間も性質がさまざまで、質の違いでランク付けができる。ランク付けされた人の質を品という。品性、気品の品はこの意味である。

「猫」

白川静『常用字解』
「形声。音符は苗。“ねこ”をいう」

[考察]
苗を擬音語とするのが通説だが、白川はこれを取らない。しかし苗からの会意的な説明がない。形声も会意的に説くのが白川漢字学説の特徴であるが、本項は字源を放棄している。
猫は貓が本字で、古典に次の用例がある。
①原文:有熊有羆 有貓有虎
 訓読:熊有り羆有り 貓有り虎有り
 翻訳:[韓の国には]クマもいればヒグマもいる ネコもいればトラもいる――『詩経』大雅・韓奕
②原文:迎貓、爲其食田鼠也。
 訓読:貓を迎ふるは、其れに田鼠を食はしむるが為なり。
 翻訳:ネコを迎えるのは、それに田のネズミを食ってもらうためだ――『礼記』郊特牲

①は猛獣を列挙しているから、普通のネコではなく、ヤマネコである。ヤマネコを馴化したのがイエネコで、②はこの意味。ヤマネコを苗と同音でmiɔg(呉音でメウ、漢音でベウ)といい、「苗(音・イメージ記号)+豸(限定符号)」を合わせて貓で表記した。
なぜ苗を用いるのか。理由の一つは鳴き声がmiɔgに近いからであろう。その他にイメージと関わっている。ヤマネコは深い深林に潜み、めったに姿を現さない。苗には「細い」「小さい」「かすか」「よく見えない」というコアイメージがある(1566「苗」、1569「描」を見よ)。ヤマネコの鳴き声の特徴や生態的習性から「細くて小さい」「よく見えない」というイメージをもつ苗との共通性を見出し、miɔgという言葉と貓という表記が生まれたのである。

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