常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2017年07月

「描」

白川静『常用字解』
「形声。音符は苗。古い用例はなく、元代の六書故に“描と摹と声相近し” とあって、摸写するの意味であるという」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなく会意的に説くのが特徴であるが、本項では苗から会意的に説明できず、字源を放棄している。
描は古典の用例はないが(唐代以前に出現)、漢字の造形原理に従って創作された字である。漢字の造形原理とは、言葉のイメージを図形に表すという方法である。描は「物の姿をえがく」という意味で使われ、苗と同音で呼ぶ。描は「苗(音・イメージ記号)+手(限定符号)」と解析できる。苗は「なえ」であるが、実体ではなく形態・機能に重点が置かれる。苗は「小さい」「細い」「かすか」「かすかで見えない」というイメージがある(1566「苗」を見よ)。漢語では「見えない」「無い」というイメージから「無いものを求める」「見えないものを見える(はっきりと分かる)ようにする」というイメージに転化する現象(転義パターン)がある。まだはっきりしていない物の姿を、絵図に書くことによって、その物の姿をはっきり見えるようにすること、これを描という。言語や文字でもって表現する意味にも転じる。これが描写である。

「病」

白川静『常用字解』
「形声。音符は丙。説文に“疾、加はるなり”とあり、病気が進むことをいう」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなく会意的に説くのが特徴であるが、本項では丙から会意的な説明がない。字源を放棄している。
まず古典における病の用例を見る。
①原文:子疾病。
 訓読:子、疾(やまい)病ヘイなり。
 翻訳:先生は病気が重くなった――『論語』子罕
②原文:今之欲王者、猶七年之病、求三年之艾也。
 訓読:今の王たらんと欲する者は、猶(なお)七年の病ひに、三年の艾(もぐさ)を求めんとするがごとし。
 翻訳:現在王になりたがる人は、七年越しの病気に、三年乾燥させたもぐさを求めるようなものだ――『孟子』離婁上

①はやまいが重くなる意味、②はやまいの意味で使われている。これを古典漢語ではbiăng(呉音でビヤウ、漢音でヘイ)という。これを代替する視覚記号しとして病が考案された。
病は「丙(音・イメージ記号)+疒(限定符号)」と解析する。丙は下部が二股に分かれていることを示す象徴的符号で、「両側に←→の形にぴんと張り出る」というイメージを表す記号となる。柄(←→の形に張り出る取っ手、「え」)ではこのイメージが明確である。疒は「爿(ベッドの形)+人」を合わせて、ベッドに臥せる、病臥する情景を描き、病気と関係があることを示す限定符号に使われる。病は手足が←→の形に張り出ている情景。図形から意味を引き出すと、死後硬直の状態になってしまうが、図形から意味が出てくるのではなく、意味のイメージを図形に表すのが漢字の造形原理である。上にあるようにbiăngは「やまいが重くなる(危篤状態になる)」ことを意味する。この状態を映像として表現するために、手足を←→の形に張り出して死にかけている情景を想定したのである。

「秒」

白川静『常用字解』
「会意。禾と少とを組み合わせた形。説文に“禾の芒なり”とあり、禾いねの先端から出ている“のぎ(堅い毛)” の意味とする」

[考察]
会意としながら少の説明がない。少からなぜ「堅い毛」の意味が出るのか分からない。
秒は古典には用例がなく、漢代以後に出現する字である。秒は杪・眇・妙などの後に作られ、これらと同源と考えられる。王力(現代中国の言語学者)はこれらを同源の語としている(『同源字典』)。藤堂明保はほかに毛のグループ、苗のグループなども加え、これらを一つの単語家族にくくり、「細い、かすか」という基本義があるとする(『漢字語源辞典』)。
杪は木のこずえ、眇は目がかすんで見えにくい、妙は何とも言えず微妙である、渺は小さくてよく見えないの意味で、「細い」「小さい」「かすか」「かすかでよく見えない」というイメージがある。これらは互いに連合するイメージである。
秒は「少(イメージ記号)+禾(限定符号)」と解析する。少は分量がすくないことであるが、形態が小さいことと関係がある。「(細かく)ばらばらに なる」というイメージで小と少は共通である。少は形態的に小さい、細いというイメージを表しうる。禾はイネや作物と関係があることを示す限定符号。したがって秒はイネの細く小さい穂先を暗示させる。これで「のぎ」を表している。
「小さい」というイメージから、秒は小さい単位に使われる。小数や長さを計る単位の場合は、一(一寸)の一万分の一を秒とする。また、時間や角度などの単位にも転用される。一秒は分の六十分の一とする。 

「苗」

白川静『常用字解』
「会意。艸(草)と田とを組み合わせた形。説文に“艸の田に生ずる者なり”とするが、田に植える作物の“なえ”をいう」

[考察]
字源説としてはほぼ妥当である。ただし「田に植える作物のなえ」は字形の解釈をストレートに意味としたもので、意味は「植物のなえ」である。古典に次の用例がある。
 原文:碩鼠碩鼠 無食我苗
 訓読:碩鼠よ碩鼠よ 我が苗を食ふ無かれ
 翻訳:大ねずみよ 大ねずみよ 私の植えた苗を食べるな――『詩経』魏風・碩鼠

字源からは言葉の深層構造は見えてこない。王念孫は「苗は杪(こずえ)なり」と述べている。「こずえ」という意味ではなく、苗と杪は同源の言葉だというのである。藤堂明保はさらに拡大して、秒・眇・妙・毛・貌・廟などとも同源とし、「細い・かすか」という基本義があるという(『漢字語源辞典』)。miɔg(苗)という言葉のコアには「細い・小さい・小さくかすか」というコアイメージがある。子孫のうち遠くかすかな子孫を苗裔という。白川は「苗裔のように“すえ”の意味にも用いる」と述べているが、コアイメージを捉えて始めて転義が明らかになる。
 

「標」

白川静『常用字解』
「形声。音符は票。票は死体を両手に持って焼く形で、その火の勢いによって屍が浮き上がることをいう。説文に“木の杪末(こずえ)なり”という」

[考察]
票の解釈の疑問については1562「票」で述べた。また意味の展開にも疑問がある。「その(死体を焼く)火の勢いによって屍が浮き上がる」ことから、なぜ「木の梢」の意味になるのか。木の梢を標識にするから「しるし」の意味が出たのか。意味展開に必然性がない。
 原文:上如標枝。
 訓読:上は標枝の如し。
 翻訳:[上古の世では]為政者はこずえのように上にいるだけだった――『荘子』天地
標はこずえの意味で使われている。これを古典漢語ではpiɔg(呉音・漢音でヘウ)という。これを代替する視覚記号しとして標が考案された。
標は「票(音・イメージ記号)+木(限定符号)」と解析する。票については1562「票」で詳述したから繰り返さない。票は「軽く空中に浮き上がる」というイメージを示す記号である。木は意味領域が木と関係があることを示す限定符号。したがって標はふわふわと空中に浮き上がって見える細い木の枝を暗示させる。木のいちばん高い所にある細い枝を標という。
意味はコアイメージによって展開する。「空中に浮き上がる」というイメージから「表面に現れ出る」というイメージに転化し、表面にはっきりと現し出す意味(標示・標榜)、目立つように掲げて示すもの(目印)の意味(門標・目標)へと展開する。これらの転義は後漢以後に現れる。
白川は「木の梢などを標識として標示したり、標柱をたてたりするので、“しるし、しめす、はしら、たてる”の意味に用いる」というが、木の梢を目印とするから「目印」の意味が出たという説明は言語外から意味を導くもので、必然性がない。
 

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