常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2017年09月

「摩」

白川静『常用字解』
「形声。音符は麻。説文に“研ぐなり” とあり、両手をすり合わせることを摩という」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなく会意的に説くのが特徴であるが、本項では麻から会意的に説明していない。字源を放棄している。
摩は古典で次のように使われている。
 原文:墨子兼愛、摩頂放踵、利天下爲之。
 訓読:墨子は兼愛、頂を摩して踵に放(いた)るも、天下を利せんとして之を為す。 
 翻訳:墨子は博愛主義で、頭から踵まですり減らしても、天下の利益のためにそうするのだ――『孟子』尽心上
摩はごしごしとこする意味であ使われている。
摩は「麻(音・イメージ記号)+手(限定符号)」と解析する。麻はアサの意味であるが、アサから繊維を取る作業から生まれた語で、「柔らかくもみほぐす」「こすってもむ」というイメージがある(1728「麻」を見よ)。手は手の動作と関係があることを示す限定符号。したがって摩は手でもんだりこすったりする動作を表している。この意匠によって上記の意味をもつ古典漢語muar(呉音でマ、漢音でバ)を表記する。
 

「麻」

白川静『常用字解』
「会意。广と𣏟とを組み合わせた形。𣏟は麻の皮の繊維の形。广は宮廟の屋根の形であるから、宮廟に𣏟あさをかけて用いるの意味で、“あさ”の意味となる」

[考察]
「宮廟にアサをかけて用いる」とはどういうことか。意味が分からない。これからなぜ植物のアサの意味になるのか。アサを意味する言葉が先にあるはずであろう。意味展開が逆転している。
言葉が先にあり、文字表記はその後である。白川漢字学説は言葉を無視し、字形から意味を引き出す学説である。字形から意味が出るというのは言語学に反している。意味とは「言葉の意味」であって字形にあるのではない。言葉が使われる文脈から、言葉の意味を判断すものである。
麻は最初から植物のアサの意味で使われている。 
 原文:東門之池 可以漚麻
 訓読:東門の池 以て麻を漚(ひた)すべし
 翻訳:東の門のそばの池 アサを漬けるにはちょうどよい――『詩経』陳風・東門之池
麻はアサの意味である。最初から現在まで意味は変わらない。古典漢語ではアサをmăg(呉音でメ、漢音でバ)という。これを代替する視覚記号しとして麻が考案された。
麻は「𣏟(イメージ記号)+广(限定符号)」と解析する。𣏟は二つの𣎳からできている。𣎳は𣏕ハイ(こけら)の右側と同形になっているが、これとは違いヒンの音。『説文解字』に「枲茎の皮を剝ぐなり。屮に従ひ、八は枲(あさ)の皮茎に象る」とある。屮は草木の茎、八はその皮と見たようだが、八は皮を剝がすことを示している。段玉裁は「𣎳は其の皮を茎より取ること、𣏟ハイは其の皮を取りて之を細かく析くなり」と述べている(『説文解字注』)。
𣏟はアサの皮を剝いで繊維を取る工程から発案された図形と考えてよい。𣏟に屋根や建物を示す限定符号の广を添えた麻も同じである。図形は建物の中でアサの皮を剝ぎ取る情景であるが、そんな意味を表すのではなく、この図形的意匠によって、アサの意味をもつmăgを代替し再現させる文字表記とするのである。
以上は字源について述べたが、語源の方が重要である。というのは麻は摩・磨・魔・靡・糜などのグループを構成し、共通のコアイメージがあるからである。どんなイメージか。
アサの皮を剝ぎ取って繊維を取り出す工程には柔らかくもみほぐすという行為がある。ここから「柔らかくもみほぐす」「こすってもむ」というイメージが生まれる。上記のグループにはこのイメージを共通に含む。また、「柔らかくもみほぐす」というイメージから、締まった筋肉が柔らかくほぐれてしびれるという意味が生まれる。これが痲痺の痲で、麻痺とも書かれる。インド大麻には麻酔効果があるから麻痺の意味が生じたとも考えられるが、麻という言葉自体から派生する意味である。

「盆」

白川静『常用字解』
「形声。音符は分。説文に“盎はちなり”とあり、盎おう(はち)は腹が大きくて口の狭い鉢、盆は底が狭くて口の広い“はち”をいう」

[考察]
白川漢字学説は形声の説明原理がなく会意的に説くのが特徴であるが、本項では分から会意的に説明していない。白川学説になっていない。また説文を引用して盆は盎だというが、二つは意味が違っている。これはどういうことか。
盆は『荘子』に用例があり、口が大きく開き底が浅い皿の意味に使われている。盆は「分(音・イメージ記号)+皿(限定符号)」と解析する。分は「八(音・イメージ記号)+刀(限定符号)」と分析する。八は↲↳の形に(左右に、二つに)わけるというイメージを示す記号。分は刀で二つにわける情景であるが、「↲↳の形にわける」というイメージを表す記号になる。↲↳の形は視点を変えると↰↱の形にもなる。視点を変えることによってイメージは転化する。分は「↰↱の形に分かれる、開く」というイメージに転化する。皿はさらと関係があることを示す限定符号である。したがって盆は口が↰↱の形に開いたさらを暗示させる。この意匠によって、上に述べた意味をもつ古典漢語buən(呉音でボン、漢音でホン)を表記する。

「凡」

白川静『常用字解』
「象形。盤の形。盤はもと舟や凡の形にかいた。“およそ、すべて、みな” の意味に用いる。のち凡才・平凡のように、“なみ”の意味に用いる」

[考察]
凡と舟はともに盤の形だというが、同じにはとうてい見えない。舟は舟の形であり、凡は舟の帆の形と見るのがまっとうである。また、盤の形からなぜ「およそ、すべて、みな」の意味が出るのか、さっぱり分からない。さらにこれからなぜ「なみ」の意味に転じるのかも分からない。
白川漢字学説は字形から意味を引き出そうとする学説である。言葉という視点がない。だから言葉の深層構造へのまなざしがない。これが意味を誤らせ、意味の展開をあいまいにさせる。
意味展開を合理的に説明するには、言葉の深層構造へ掘り下げ、コアイメージを捉える必要がある。コアイメージによって意味展開は合理的に説明できる。
まず古典における凡の用例を見る。
①原文:凡今之人 莫如兄弟
 訓読:凡そ今の人 兄弟に如くは莫し
 翻訳:だいたい現在の人は 兄弟にかなうものはいない――『詩経』小雅・常棣
②原文:才能不過凡庸。
 訓読:才能は凡庸に過ぎず。 
 翻訳:才能は人並に過ぎなかった――『史記』絳侯周勃世家

①は全体をひっくるめて(おしなべて、だいたい、おおよそ)の意味、②は一般的で普通、並の意味で使われている。これを古典漢語ではbiăm(呉音でボム、漢音でハム)という。これを代替する視覚記号しとして凡が考案された。
凡の字源については諸説があるが、帆の形とするカールグレンと馬叙倫の説がよい。ただし帆という実体に重点があるのではなく形態・機能に重点がある。帆は平らな面をもつ枠であり、張り広げるものである。「枠をかぶせる」「平らな面で覆う」「全体を広く覆う」というイメージを表す記号となる。「全体を広く覆う」というコアイメージから具体的な意味(文脈に使われる意味)が実現される。それは「全体を満遍なくカバーする」こと、言い換えれば、個別的なことを一つ一つ取り上げるのではなく、全体をひっくるめて取り上げる用法、つまり上記の①の意味である。全部をひっくるめるのは特別ではなく一般的で普通の状態である。だから②の意味を派生する。普通の普は「あまねし、満遍なく」、通は「行き渡る」ということで、普通も「全体に通じて特別ではない」という意味。平凡の凡とは普通と同じような意味である。
 

「翻」

白川静『常用字解』
「形声。音符は番。番は獣の足うらの形で、ひらひらするものの意味がある。翻意・翻身のように、“ひるがえる、ひるがえす”の意味に用いる」

[考察]
「獣の足うらの形」から「ひらひらするものの意味」になるというのは理解に苦しむ。ひらひらする→ひるがえるという意味展開は分かる。しかしなぜ翻訳という使い方があるのか、これでは分からない。番の解釈の疑問については1526「番」で述べた。
翻は「番(音・イメージ記号)+羽(限定符号)」と解析する。番に含まれる釆ハンの字源について、高田忠周、加藤常賢、藤堂明保らが、種を播く形で、播ハの原字と見たのが正しい。釆は拳・巻などの上部にも含まれ、種を握った拳を開いて種を播く直前の手のひらを描いている。 手のひらを開いて種を播く行為から、「円形を描くように四方に平らに広がる」「周囲を丸く取り巻く」「四方に発散する」「平面がひらひらする」というイメージを表す記号となる。番もこのイメージを表す記号である。種を播く動作は手のひらを開いたり、裏返しにしたりするから、「平面がひらひらする」というイメージがあり、表になったり裏になったりして、同じような事態がA→B→A→Bの形に繰り返される。
番は「平面がひらひらする」というイメージ。羽は鳥の羽と関係があることを示す限定符号。したがって翻は鳥が翼をひらひらさせて飛ぶ情景を暗示させる図形である。この意匠によって「平らなものがひらひらする」という意味をもつ古典漢語ではp'iuăn(呉音でホン、漢音でハン)を表記した。翩翻という使い方が最初である。
上で述べたように「平面がひらひらする」というイメージは「表になったり裏になったりする」というイメージと連合する。これから「裏返る、くつがえる」の意味を派生する。これが翻意などの翻である。また、A(表)→B(裏)に変わることから、Aという言語をBという別の言語に切り換えるという意味が生まれる。これが翻訳の翻である。白川は「また、原稿を版木に写しかえて出版することを翻刻、ある国語を他国語に写しかえることを翻訳という」と述べているが、なぜ「ひるがえる、ひるがえす」からこんな意味になるのか、理由が分からない。
意味の展開はコアイメージによって起こる。言葉の深層構造であるコアイメージを捉えないと転義現象を合理的に説明できない。

↑このページのトップヘ