常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2017年10月

「油」

白川静『常用字解』
「形声。音符は由。由はもとの形はそらく卣で、瓢簞の類の実が熟して溶け、殻の中がからっぽになった形である。熟した実が油のような状態になったものを油といい、“あぶら、あぶら状のもの”の意味となる」

[考察]
由の字源説に疑問があることは1790「由」で述べた。由を卣に置き替えるのも疑問だが、卣を「瓢簞の類の実が熟して溶け、殻の中がからっぽになった形」と見るのも根拠がない。
字源説がおかしいから、意味の解釈もおかしい。瓢簞の実が溶けたのが油のように見えるのであろうか。これから「あぶら」という意味が生まれたのであろうか。
意味とは「言葉の意味」であって字形から出るものではない。白川漢字学説には言葉という視座がないから、字形から意味を導くが、その導き方は往々恣意的で、合理性がない。
古典における油の用例を見る。
①原文:身汗如油。
 訓読:身汗して油の如し。
 翻訳:体にあぶらのような汗が出る――『傷寒論』弁脈法
②原文:天油然作雲。
 訓読:天、油然として雲作(おこ)る。
 翻訳:空に雲がもくもくと湧き起こる――『孟子』梁恵王上

①は液体性のあぶらの意味、②はするすると滑って通りがよい意味で使われている。
①の文献は漢代である。「あぶら」の意味は先秦の古典にないから、漢代以後に現れるようである。②の文献が古いから、②の意味が最初であった可能性がある。
油は「由(音・イメージ記号)+水(限定符号)」と解析する。由については1790「由」で述べたので繰り返さない。由は「ある所・範囲を通て出てくる、通り抜ける」というコアイメージを表す記号である。水などがするすると(スムーズに)通り抜けるというのが油の図形的意匠である。②では雲が現れて空のある範囲を通っていく状態を油然と形容している。
「スムーズに通り抜ける」というイメージから、滑らかに通りのよい液状のあぶらという意味が派生する。ちなみに固体のあぶらは脂・膏という。
 

「由」

白川静『常用字解』
「象形。もとの形はおそらく卣。瓢簞の類の実が熟して溶け、殻の中がからっぽになった形である。由は説文にはなく、その由来が知りがたい字であるが、青銅器の卣(さかだる)の形と似ており、おそらく卣がもとの字であろう。“よる、よし、もちいる”の意味に用いるのは、その音を借りる仮借の用法である」

[考察]
由を卣とするのも疑問だが、一方では卣を「瓢簞の類の実が熟して溶け、殻の中がからっぽになった形」といい、他方では「青銅器の卣」の形とするのは、不統一である。卣を酒器の形と見る説は白川以外にもある。しかし卣を「瓢簞の類の実が熟して溶け、殻の中がからっぽになった形」と見る説はほかにない。この説は何の根拠もない。だいたい卣は「瓢簞の類の実が熟して溶け、殻の中がからっぽになった形」にはとうてい見えない。それよりも由を卣とすることに疑問がある。また仮借説も納得しがたい。解釈ができないから仮借説に逃げたにすぎない。
白川漢字学説には言葉という視座がなく、字形だけを相手にするから、言葉が見えない。いくら字形をいじっても意味は出てこない。意味とは「言葉の意味」であって字形から出るものではなく、言葉の使われる文脈から出るものである。
古典における由の用例を見る。
①原文:魯道有蕩 齊子由歸
 訓読:魯道蕩たる有り 斉の子由(よ)りて帰(とつ)ぐ
 翻訳:魯の道ははるかに遠い 斉の娘はここを通って嫁に行く――『詩経』斉風・南山
②原文:由醉之言 俾出童羖
 訓読:酔ひに由るの言 童羖ドウコを出(い)ださしむ
 翻訳:酔いによる言葉は 角のない羊を出すようなもの[でたらめ]――『詩経』小雅・賓之初筵
③原文:雖欲從之、末由也已。
 訓読:之に従はんと欲すと雖も、由(よし)末(な)きのみ。 
 翻訳:それに従いたいと思うけれど、方法がないだけだ――『論語』子罕

①はある所や範囲を通り抜けていく意味、②はあることから出てくる意味、③はあることが出てくる根拠・わけの意味で使われている。これを古典漢語ではdiog(yiog)(呉音でユ、漢音でイウ)という。これを代替する視覚記号しとして由が考案された。
由は『説文解字』にないから篆文がなく、それ以前の古代文字(甲骨文字、金文、籀文、古文)もない。しかし古典では頻用されており、由に従う字(油・抽・宙・軸・迪など)の篆文はあるから、由の字源を推察できないわけではない。ただ字形があまりにも単純なため解釈が難しく、諸説紛々である。卣説(王国維)、冑説(唐蘭)のほかに、「酒の糟を搾る籠」(加藤常賢)、「酒や汁を抜き出す口のついた器」(藤堂明保)などの説がある。
漢字の成り立ちを説明するのに象形・指事・会意・形声の用語を使うのが一般的だが、これにこだわると見えなくなることがある。漢字の作り方には象徴的符号ともいうべき造形法もある。これを導入することで見えてくる字もある。スウエーデンのカールグレン(中国語学者、中国古代学者)が「ある範囲から道が出ていく形」(Grammata Serica Recensa)と解釈したのが参考になる。しかし道という実体と見る必要はない。由はある区画(曰)から上方に縦線(│)が抜け出る様子を示した象徴的符号と解釈したい。この意匠によって「ある範囲を通り抜ける」「抜け出る」というイメージを表すことができる。
由のグループにはすべて「通り抜ける」というイメージがある。このコアイメージをもつ言葉がdiog(yiog)であり、由と表記される。「通り抜ける」というコアイメージから、具体的文脈では上の①の意味が実現される。経由の由はこの意味。『論語』にある「径に由らず」は「近道を通っていかない」という意味。これは空間的な動作のイメージだが、時間にも転用できる。ある時間を起点として、そこから経過して今に至ることが由来である。また、論理的なイメージにも転用できる。ある事柄が何から出てきたかいうその原因・根拠の意味(上の③)を派生する。これが理由の由である。

「躍」

白川静『常用字解』
「形声。音符は翟。翟は飛び上がろうとして羽を揚げている鳥の形。獣が足を揚げて跳躍することを躍といい、“おどる、はやい、あがる”の意味に用いる」

[考察]
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。翟(飛び上がろうと羽を揚げる鳥)+足→獣が足をあげて跳躍するという意味を導く。
躍に「獣が足を揚げて跳躍する」という意味があるだろうか。こんな意味はない。だいたいなぜ獣なのか。鳥は空中に飛ぶものだが、獣はそんなことはできない。豹のように跳躍できるのはほんの一部の獣であろう。「飛び上がる」と「跳ね上がる」は言葉としてはかなり違う。しかし共通点もある。この共通点に着目しないと翟と躍のつながりが分からない。
意味は字形からは出てこない。言葉の使われる文脈から出るものである。まず古典の文脈を見よう。
 原文:鳶飛戾天 魚躍于淵
 訓読:鳶は飛んで天に戻(いた)る 魚は淵に躍る
 翻訳:トビは飛んで天までのぼり 魚は淵で水面にはね上がる――『詩経』大雅・旱麓
躍は高くはね上がる意味で使われている。これを古典漢語ではdiɔk(yiɔk)(呉音・漢音でヤク)という。これを代替する視覚記号しとして躍が考案された。
躍は「翟(音・イメージ記号)+足(限定符号)」と解析する。翟については1211「濯」で述べている。 翟は「羽+隹(とり)」を合わせて、鳥の羽が高く上がっている情景を設定した図形。翟はヤマドリという鳥の名である。古代中国ではヤマドリの尾羽を冠の装飾に用い、冠に高々と挿した。だから「羽+隹」の図形でヤマドリを表した。しかし濯・擢・躍・曜などのグループ(諧声語群)では実体に重点があるのではなく形態に重点がある。「高くあがる」というイメージが取られるのである。飛ぶこととは違い、地面から上方に↑の形に上がるというイメージである。
翟は「上方に↑の形に高く上がる」というイメージ。足は「あし」と関係があることを示す限定符号。獣の足とは限らない。躍は足で地面をはねて高く上がる情景。この図形的意匠によって、「はね上がる」「おどり上がる」という意味をもつdiɔk(yiɔk)を表記した。 

「薬]
正字(旧字体)は「藥」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は楽(樂)。説文に“病を治す艸なり”とあって、薬草の意味とする。“くすり、くすりでいやす”の意味に用いる」

[考察]
説文に従って「薬草」の意味とするが、字源についてはこれに続いて、「樂は柄のついた手鈴の形で、シャーマンがその手鈴を振り、病魔を祓って病気を治すことを𤻲といい、療の古い字形である。薬が音符を楽とするのは、古い時代にシャーマンが病気を治療することに当たったことの名ごりであろう」と述べている。字源については追補の形で、「であろう」と推測して述べているから、確説でもなさそうである。
白川漢字学説には形声の説明原理がなく会意的に説くのが特徴である。本項では形声的に説明ができないから、会意的に考え直した結果、シャーマン治療(呪術療法)を持ち出したように見える。しかし楽がシャーマンの用いた手鈴なのか、ここからシャーマンが鈴を振って病気を治すことを療といったのか、疑わしい。194「楽」では「もと舞楽のときにこれ[手鈴]を振って神をたのしませるのに使用した」から、楽は「たのしむ」の意味になったというが、これも疑わしい。
白川漢字学説には言葉という視座がない。すべて字形から意味を読もうとする。その結果、図形的解釈と意味を混同している。意味とは「言葉の意味」であって字形から出るものではなく、言葉の使われる文脈から出るものである。藥の使われる古典の文脈を見る必要がある。
①原文:以五味五穀五藥、養其病。
 訓読:五味・五穀・五薬を以て、其の病を養ふ。
 翻訳:[内科医は]五味と五穀と五薬で病気を手当てする――『周礼』天官・疾医
②原文:多將熇熇 不可救藥
 訓読:多くして将に熇熇カクカクたらんとす 救薬すべからず
 翻訳:ますます憂えて火のように熱い もはや薬でもいやせない――『詩経』大雅・板

①は自然界から素材を得た草根木皮(生薬)の意味、また広く「くすり」の意味、②は病気を治す意味で使われている。これを古典漢語ではgliok(yiak)(呉音・漢音でヤク)という。これを代替する視覚記号として藥が考案された。
藥は「樂ガク(音・イメージ記号)+艸(限定符号)」と解析する。樂については194「楽」で述べたが、もう一度振り返る。
樂の字源については諸説紛々で定説はないが、水上静夫が「樂は櫟の原字である」と唱えた説が妥当であろう。樂は「幺+白+幺+木」と解剖できる。幺は糸の上部に含まれ、繭の形。クヌギにはヤママユガ(山繭蛾)が繭を作る。白はドングリの形。これらは丸い粒状の物体である。樂はクヌギの特徴から発想された図形で、クヌギという実体ではなく、その形態的特徴に重点を置く図形である。すなわち「丸く小さい粒」というイメージを表現するために樂が造形された。音楽の意味は楽器から連想するのが簡単だが、音声面から視覚化しようとするのが古人の発想である。原始的な土製や石製の楽器はボコボコという音であろう。このような音のリズムは点々とつながるイメージである。これを粒状のものに見立てて視覚化する。かくて「丸くて小さな粒」のイメージをもつ樂が考案された。 (以上、194「楽」の項)
実体ではなく形態・機能に重点を置くのが漢字の造形法である。白川説では会意的に説くため実体を重視する。だから樂をシャーマンの手鈴という実体として意味を求め、シャーマンが神を楽しませるのが樂、シャーマンが鈴を振って病気を直すことが藥だとする。
実体ではなく形態を重視すると、樂はクヌギという実体を離れて「丸くて小さな粒」というイメージが取られたと解釈できる。小さな粒は一つだけではなく、散在している。だから「小さい点がばらばらになる」というイメージにも展開する。樂を基幹記号とするグループには「丸く小さな粒」「小さな粒が散らばる」というコアイメージがある。
轢(レキ)・・・車輪でひいて粒状につぶす→轢死・轢断の轢(ひく)
礫(レキ)・・・ごろごろした小さい石→瓦礫の礫(つぶて)
鑠(シャク)・・・金属を熱でばらばらにつぶす→金属を溶かす
爍(シャク)・・・火光が四方に飛び散る→あかあかと燃える・ぎらぎらと光る
このように樂の諧声語群は「小さな粒」というコアイメージをもっている。
樂は「丸くて小さな粒」「点々と 粒状に散らばる」というイメージを表す記号。艸は草と関係があることを示す限定符号。したがって藥は草を小さくすりつぶした粒状のものを暗示させる図形である。この図形的意匠によって上記の①の意味をもつgliok(yiak)という語を表記するのである。

「訳」
正字(旧字体)は「譯」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は睪えき。睪は獣の屍体の形で、その屍体をばらばらに解きほぐすことを釈という。説文に“四夷の言を伝訳する者なり”とあって、異なった言語を自国語に言い直す人をいう。ある言語を一つ一つに解体し、別の言語に改めること、他国語の意味を伝えることをいう」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなく会意的に説くのが特徴である。睪(獣の屍体)と言を合わせて、「ある言語を一つ一つに解体し、別の言語に改めること、他国語の意味を伝えること」という意味を導く。
意味はこの通りであろうが、「獣の屍体を解きほぐす」ことから「言語を解体する」へと転換させるのがやや無理。解体しては消えてしまう。再建することが必要だろう。翻訳とは「解体する」 ことに重点があるわけではあるまい。組み替えることに重点があるはずである。
形声の説明原理とは言葉という視点に立ち、言葉の深層構造へ掘り下げ、コアイメージを捉えることによって、言葉の意味を明確に説明する方法である。字形から意味を読み取る方法ではない。意味とは「言葉の意味」であって字形から出てくるものではない。言葉の使われる文脈から出るものである。 
古典における訳の用例を見る。
 原文:凡冠帶之國、舟車之所通、不用象譯狄鞮。
 訓読:凡冠帯の国、舟車の通ずる所、象・訳・狄鞮テキテイを用ゐず。
 翻訳:中華の国は交通の便がよいから通訳の必要がない――『呂氏春秋』慎勢
譯は通訳、翻訳、つまりある国(民族)の言語を別の国(民族)の言語に移し換えて伝えることである。これを古典漢語ではdiak(yiak)(呉音でヤク、漢音でエキ)という。これを代替する視覚記号しとして譯が考案された。
中国の四方に多くの異民族が住んでいて、外交などのため意思を通じる必要があった。外国語を中華の言語(漢語)に直すための官吏(通訳官)は地域ごとに呼び名が違っていた。『礼記』王制に「東方を寄と曰ひ、南方を象と曰ひ、西方を狄鞮と曰ひ、北方を譯と曰ふ」とある。譯はそれらの総称でもある。
遠い所にある異民族国家の場合や、少数民族が非常に多い所では、一対一に通訳することが困難なことがある。Aの言語をBに移し、BをCに移し、Cを漢語に移すということがしばしば起こる。『史記』大宛列伝では実に九訳(九つの言語を通して翻訳する)という事例が見られる。
譯は名詞にも動詞にも使われた。上記の譯は通訳官の意味である。なぜ譯というのか。語源・字源の両面から究明する。まず字源から始める。譯は「睪(音・イメージ記号)+言(限定符号)」と解析する。睪についてはすでに66「駅」で述べている。振り返って見よう。
睪を解剖してみる。「罒+幸」に分析する。罒は目と同じ。幸は手枷(手錠)の形である。「目+幸」は極めて舌足らず(情報不足)な図形で何とでも解釈できるが、幸を犯人や容疑者の象徴と見ると、犯人や容疑者を目視する場面と想定することができる。犯人を特定するために容疑者を面通しする場面を設定したのが睪と解釈できる。『説文解字』に「目視なり。吏をして目をもって罪人を捕らへしむるなり」とある。面通しする場面では何人かの容疑者をのぞき見して違うかどうかを判定する。このような情景を図示するとA-B-C-というぐあいに次々につながっていく。数珠つなぎのイメージになる。したがって「数珠つなぎ(ー・ー・ー・の形)につながる」というイメージを睪で表しうる。かくてー・ー・ー・の形に点々とつながる宿場、その宿場を乗り継ぐ馬という意匠をもった驛が成立する。(以上、66「駅」の項)
睪は「数珠つなぎ(ー・ー・ー・の形)につながる」というイメージを表す記号で、驛・澤・擇・釋・繹などの語群がすべてこのコアイメージをもつ。譯も同じである。言は言葉に関係があることを示す限定符号。したがって譯はAの言語をBに、またA→B→C→Dというぐあいに次々と置き換えてつないでいく状況を示す図形である。この意匠によって上記にある意味をもつdiak(yiak)という語を表記する。
駅(宿場、現代ではステーション)はA→B→C→Dとつながっていく。駅伝(リレー式につなげる徒競走)はまさにこのイメージである。訳もA→B→C→Dと言語をつないでいく。多言語間だけではなく二言語間でも訳という。

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